花開吉祥
メニューには
次のように記されていました
あざやかな百合の花と千日紅が印象的
花言葉:万事大成の予感
あるサイトによれば
「この花が咲くとこの上なく良いことが起きますように」
と願いを込めて名付けられたお茶
だそうです
*
百合の花に包まれた千日紅の花言葉は
「変わらぬ愛」
その近縁種に
ストロベリー・フィールズの名を見つけ
ビートルズの楽曲を思い出しました
百合の花言葉は
「威厳」「純潔」「無垢」
キリスト教において白ユリは
マリアの花とされており
「聖母のユリ(マドンナ・リリー)」と呼ばれているようです
昨年
折に触れ目に留まった
フルール・ド・リスは
直訳すると
「ユリの花」
ですが、
このユリは
一般的なユリ(ユリ目ユリ科ユリ属)ではなく
ユリ目アヤメ科アヤメ属のアイリス
とのこと
アイリスの名は
ギリシア語で「虹」を意味するイリスに由来するそうです
ギリシア神話の女神「イーリス」にもつながる
その紋様は
フランス王家の紋章として知られています
一番外側で
上記二つの花を包む茶の
花言葉は
「追憶」「純愛」
となっていました
さくらさくら
たしか
ひと月ほど前に活けた
啓翁桜
当時は
花はちらほらで
蕾が多かったのに
いまでは
満開の時を過ぎ
葉桜のときへと向かっています
水だけで
命を育みつづける
枝ものの
生命力には
ただただ
驚くばかりです
桜といえば
日本の花のイメージですが
その原産は
ヒマラヤ近郊なのだとか
インドと日本
雑誌『g2(ジーツー)vol.15』に掲載された「海洋アースダイバー」で
中沢新一さんが
ユーラシア大陸の東の端から
日本列島が分離した要因についての いくつもの説のなかから
「とりわけ私のお気に入り」として紹介している説が、
私も 気に入っています
それは、
マダガスカル沖にあったインド島が
ユーラシア大陸にぶつかって
インド亜大陸となった
その衝突の圧力と地形の歪みが
(この衝突によってヒマラヤがうまれました)
次第に
ユーラシア大陸の東へと伝播し、
それによって
日本列島が
分離した、
というもの
日本人になじみの深いツルも
また
ヒマラヤの文脈で思い出すもののひとつです
日本には迷鳥として渡来することがあるという
アネハヅルは
ヒマラヤ山脈を越える渡りをします
はるらんまん
先日
志村ふくみさんの卒寿の展覧会へ伺って
改めて
「いろ」の
特に
「自然のいろ」の
すばらしさを
感じてきました
今日は暖かい一日でしたが
明日からはまた寒が戻るとの予報
本格的な春到来までには
もう少し時間がかかるかもしれませんが
部屋に飾った
花々が
春の息吹とぬくもりを
運んできてくれています
季節を先取りする
ことは
意識を未来へ誘う
ことでも
あるのですね
はなひし
とりだした
あやおり
の
もん
ひしかたに
サザンクロス
が
たくしたる
獣のすうじ(666)の
みつどもえ
やえのさくらは
空海の
八十八の
ふう
いん
が
たぬきて
あわに
うづめした
さぬきの
きつねの
たねとりて
クルスのクロス
とりはらう
二二にわけたる
ひのもとは
さしすせ
おり
つ
そのちから
とさのさとへと
もとり
いき
かごめのさるめ
さりさりて
さかみち
とおる
かなのはし
しこくを
つげる
かなのはし
しへんのはなさき
かなかわり
さかみのさとに
あさきては
いざなひ
ひらく
かいのひとひと
【補記】
花菱は
伊勢神宮の神紋でもあります
出雲大社の神紋は
花菱に剣紋を添え
それを二重の亀甲紋で囲ったもので、
安芸の宮島にある厳島神社は
更にそれを3つ盛ったもの
記紀では
征服したと読める側の社の紋を
征服されたと読める側の社の紋において
海の使いである亀の甲羅によって封印しているのが
興味深いところです
イセ
は
座(い・ます)瀬
とも記せますね
伊勢が奉じてきたものは
アルファでありオメガであるものなのかもしれません
はるのうみ
<携帯のカメラに指がかかっていたようで 左上に影が映り込んでしまいました。。。>
旧暦の新年が明けた翌日の
如月のついたちは
全国的に
春のような暖かい日和となりました
3つのプレートが接合したエネルギーを
足元に感じながら
山道を歩いていると
はるか古の旅人になったような気持ちになります
山歩きをご一緒したのは
海人としての縄文人について本を書かれた方で、
ちょうど先日
千葉県市川市国分にある雷下遺跡から
国内最古とみられる
約7500年前の丸木舟が見つかった
という発表があったばかりということもあり、
現在発売中の雑誌に載っている
中沢新一さんの
「海洋アースダイバー」
の内容にも触れながら、
アフリカから旅してきたヒトの
いくつものグループに想いを馳せつつ、
“旅するひと”
の連なりの中に
自分があることに
ときめき
と
うれしさ
と
ほこらしさ
を
感じたのでした
正四面体の紋/門
今日おとずれた社に
こんな紋が記されていました
三つ鱗
だと思いますが
通常は空白になっている真ん中の三角も
色付けされているため
正四面体の展開図のようにも見えます
この紋を見たとき
わたしは
イギリスの国旗のデザインを
思い出しました
Wikipediaによれば
イギリスの国旗は
最初
聖ジョージ・クロスであるイングランドの旗と
聖アンドリュー・クロスのスコットランドの旗を
組み合わせてつくられ
その後
更に聖パトリック・クロスのアイルランドの旗が加えられ
現在の
“ユニオンジャック”とも呼ばれる国旗になったようです
このデザインを見ると
イングランドのクロスが
スコットランドとアイルランドのクロスの上に
乗っており、
見ようによっては
イングランドが
スコットランドとアイルランド(の紋章)を封印している
デザインのようにも映ります
せんげんやま
[右側の 空に浮かぶ緑がかった光は レンズの反射によって映り込んだものと思われます]
今季一番の寒さと伝えられる この週末
暖かい部屋の中で ぬくぬくしているのが一番ですが
昨年からの約束で
昨日
隣の市の山へ登ってきました
この辺りの地形は
海底が隆起してできたため
一見 なだらかな里山に思えても
その尾根は
かなりのアップダウンが延々と続くのだとか
そのためでしょう
200メートル前後の標高の山を二つ登っただけなのですが
結構な運動になりました
氷のように冷たい 透明感のある空気と
空から注がれる暖かい陽光
まさに“水泉動”のような気象のなかで
まぶしいほどに輝く
草木の葉や海のけしきが
強く印象に残りました
水泉動
本日は
七十二候の第六十八候「水泉動」
しみず あたたかを ふくむ
地中で凍った泉が動き始める
あるサイトに、
「地上のあらゆるものが凍りつく 寒さ厳しい小寒
地中では凍った泉が融けて動き始め
春への準備が着々と進んでいます」
との解説がありました
01/10
という
線対称とも反転とも
あるいは
進展とも開闢とも
観て取れる数の並びの今日
届いたメールマガジンで
グリーンランドの氷床下に湖が発見されたことを知り
「水泉動」
というコトバが
リアルな実感を持って響いてきました
総理経験者が立候補を表明した都知事選は
ちょうどひと月後ですね
【余談】
グリーンランドでの発見を伝えるメールマガジンに載っていた
「音波で浮上させた物体の3次元操作に成功した」
という記事も
興味深いです
はじまり と おわり
今日は グレゴリウス暦2014年の元旦
そして 旧暦師走の朔
この時期は 太陽と月の周期が寄り添っているようで
1月の晦日が 旧暦の元旦
3月の1日が 旧暦2月の朔
となっています
*
*
12月は師走と呼ばれますが、
その語源の説の一つに
「四季の果てる月」という意味の 「四極(しはつ)」や
「一年の最後に成し終える」という意味の 「為果つ(しはつ)」があるようです
個人的には 「師が走り回る」というよりも
こちらの方が しっくりきます
「果て」を意味する名の呼び名が
「しはつ」と
はじまりを連想させるオトであるのが
興味深くもあり
また
「しわす」
と書けば
「し 和す」 とも読め
これまた 意味深長な名に思えてきます
(「し」は 上記の“四”や“為”とも取れますが
古くは 息吹や命を意味する言葉でもあったようです)
新暦の一年の始まりの月と
旧暦の一年の終わりの月が
かさなっている
はじまり と おわり の とき
あらたなものが うまれなければ
ふるいものは おわることができません
ひとりひとりの聖誕祭
今日は クリスマス
Christmasは
「Christ(クライスト)」と「mass(マス)」を合わせた言葉で
Christは キリスト
massは ミサ(missa=礼拝)
を意味しているとか
更にそれぞれの語源を調べてみると、
「Christ」は
聖香油を意味するchrisma(クリスマ)とも
ヘブライ語のמָשִׁיחַ(メシア)のギリシア語訳ともあり
いずれにしても 「油を注がれて聖別された者」に由来し、
「mass」や「missa」は
ラテン語のmittere(ミテレ=送る 放つ 解散する)で
礼拝の終わりに司教が告げる言葉
「Ite, missa est(イテ・ミサ・エスト)」(行きなさい 解散します)
に由来するようです
メシアもキリストも
ある時期からは「救世主」を意味するようになりました
クリスマスは
通常
キリストの聖誕祭
とされます
もともと
古の「冬至の祭」に由来するクリスマスの日は
イエスの誕生した日ではなく
救世主が生まれたことを祝う日のようです
その言葉の原義をたどると
救世主が解散する
とも
救世主を放つ
とも
聖別という概念が終わる
とも
捉えることができます
一人一人が
その人にとっての救世主であることを考えると、
油を注がれた特別な“救世主”の時代は終わり
自らの救世主たる 自律した“ひと”が 広がっていく
とき
と
みることもできそうです
古の時代
冬至は一年のはじまりだったとか
ふるい時代が終わり
あらたな時代が始まる
今年の冬至 そして クリスマスの「とき」は
そんな予感に満ちているように観じられるのです
ある方が
私たちはみんな かけがえのない「答え」である
と
おっしゃっていました
一人一人が
この世界の「問い」であり
すなわち
「答え」である
ということになるでしょうか…
クリスマスは
そんな救世主たる一人一人が
生まれたことを祝う日
であり
自らの いのち や 生 について考え
“いま”を顧みる日
なのかもしれません
に由来するようです
メシアもキリストも
ある時期からは「救世主」を意味するようになりました
クリスマスは
通常
キリストの聖誕祭
とされます
もともと
古の「冬至の祭」に由来するクリスマスの日は
イエスの誕生した日ではなく
救世主が生まれたことを祝う日のようです
その言葉の原義をたどると
救世主が解散する
とも
救世主を放つ
とも
聖別という概念が終わる
とも
捉えることができます
一人一人が
その人にとっての救世主であることを考えると、
油を注がれた特別な“救世主”の時代は終わり
自らの救世主たる 自律した“ひと”が 広がっていく
とき
と
みることもできそうです
古の時代
冬至は一年のはじまりだったとか
ふるい時代が終わり
あらたな時代が始まる
今年の冬至 そして クリスマスの「とき」は
そんな予感に満ちているように観じられるのです
ある方が
私たちはみんな かけがえのない「答え」である
と
おっしゃっていました
一人一人が
この世界の「問い」であり
すなわち
「答え」である
ということになるでしょうか…
クリスマスは
そんな救世主たる一人一人が
生まれたことを祝う日
であり
自らの いのち や 生 について考え
“いま”を顧みる日
なのかもしれません
みずからいきる
12月5日の午後8時50分頃(*現地時間)
ネルソン・マンデラ氏が逝去されました
本日届いたメールマガジンで触れられていた
マンデラ氏の言葉に感じるものがありましたので
こちらでも紹介させていただきます
大統領就任演説での一文のようです
(私の判断によって 一文と一語を省略してあります
もう「神」というコトバは必要ない時代に入っていると思うので…)
*
われわれが最も恐れているもの
それは自分が無力だということではない
われわれが最も恐れているもの
それは
自分には計り知れない力がある
ということだ
われわれが最も恐れているもの
それは我々の光であって
闇ではない
我々は自分に問いかける
自分ごときが
賢く 美しく 才能にあふれた素晴らしい人物であろうはずがないではないか?
だが
そうであってなぜいけない?
あなたが遠慮をしても世界の役には立たない
まわりの人が気後れしないようにと
あなたが身を縮めることは
何の美徳でもない
われわれは
自らのうちにある栄光を表すために生まれてきたのだ
そしてそれは限られた人のものではなく
すべての人の内にある
われわれが
みずからの内にある光を輝かせるとき
無意識のうちに他者に対しても同様のことを許している
われわれが
自分の持つおそれから自らを解放するとき
我々の存在は
同時に他者をも解放する
*
ほんとうの意味で他者のためになるのは
その人が
その人の人生をいきること
ずっと そう観じてきました
(そのようにできているかどうはか別ですが…)
とかく
他人を助けるためにという理由をつけて
わたしたちは救世主になりたがります
あるいはその裏返しとして
救世主を無意識のうちに求めます
他者を助けることがいけない
と言っているのではないのです
ただ
「他人のため」という響きのいい言葉は、
みずからの内にある恐れを
意識に浮上させないために
あるいは
自分自身の問題に
向き合うことを避けるために
使われることが
自分を振り返ってみても
少なくありません
マンデラ氏がここで言う
「自分が素晴らしい人であるはずがない」
という思いは
実際
自分のなかにもありました
それは
他者を貶める意識が積み重なった
長年の歴史が作り上げてきた集合意識の影響を受けているとも言えるのですが、
その影響を受けることを許しているのは
他ならぬ自分です
他人を妬む気持ちは
自分を貶め妬む気持ちの裏返し
まわりのせいにしたり
他人を思い通りにしようとするのは
自分の可能性をおそれ
自身を縛っている意識のあらわれ
みずからの可能性をひらいていくためには
みずからのうちにある怖れと
向き合わなければなりません
が
ひとつ手ばなすごとに
身も心も
自分という存在が
軽やかになっていきます
ひとの可能性に限りがないのであれば
ひとは
おそれと向き合い続けていく
ということになるのでしょう
でも
ひとの意識がどこかの領域でつながっているとすれば
一人一人が
みずからのおそれと向き合い
一つ一つ手ばなしていくなら
その作業は
徐々に楽になっていくのではないでしょうか
短い期間ではありますが
この10年
じぶんの内側を観る作業をしてきた一人として
その傾向を実感しています
10年前に比べて
そしてたぶんその前に比べればはるかに
ずっと
“じぶんをいきる”ための環境は
調っていると言えそうです
本日届いたメールマガジンで触れられていた
マンデラ氏の言葉に感じるものがありましたので
こちらでも紹介させていただきます
大統領就任演説での一文のようです
(私の判断によって 一文と一語を省略してあります
もう「神」というコトバは必要ない時代に入っていると思うので…)
*
われわれが最も恐れているもの
それは自分が無力だということではない
われわれが最も恐れているもの
それは
自分には計り知れない力がある
ということだ
われわれが最も恐れているもの
それは我々の光であって
闇ではない
我々は自分に問いかける
自分ごときが
賢く 美しく 才能にあふれた素晴らしい人物であろうはずがないではないか?
だが
そうであってなぜいけない?
あなたが遠慮をしても世界の役には立たない
まわりの人が気後れしないようにと
あなたが身を縮めることは
何の美徳でもない
われわれは
自らのうちにある栄光を表すために生まれてきたのだ
そしてそれは限られた人のものではなく
すべての人の内にある
われわれが
みずからの内にある光を輝かせるとき
無意識のうちに他者に対しても同様のことを許している
われわれが
自分の持つおそれから自らを解放するとき
我々の存在は
同時に他者をも解放する
*
ほんとうの意味で他者のためになるのは
その人が
その人の人生をいきること
ずっと そう観じてきました
(そのようにできているかどうはか別ですが…)
とかく
他人を助けるためにという理由をつけて
わたしたちは救世主になりたがります
あるいはその裏返しとして
救世主を無意識のうちに求めます
他者を助けることがいけない
と言っているのではないのです
ただ
「他人のため」という響きのいい言葉は、
みずからの内にある恐れを
意識に浮上させないために
あるいは
自分自身の問題に
向き合うことを避けるために
使われることが
自分を振り返ってみても
少なくありません
マンデラ氏がここで言う
「自分が素晴らしい人であるはずがない」
という思いは
実際
自分のなかにもありました
それは
他者を貶める意識が積み重なった
長年の歴史が作り上げてきた集合意識の影響を受けているとも言えるのですが、
その影響を受けることを許しているのは
他ならぬ自分です
他人を妬む気持ちは
自分を貶め妬む気持ちの裏返し
まわりのせいにしたり
他人を思い通りにしようとするのは
自分の可能性をおそれ
自身を縛っている意識のあらわれ
みずからの可能性をひらいていくためには
みずからのうちにある怖れと
向き合わなければなりません
が
ひとつ手ばなすごとに
身も心も
自分という存在が
軽やかになっていきます
ひとの可能性に限りがないのであれば
ひとは
おそれと向き合い続けていく
ということになるのでしょう
でも
ひとの意識がどこかの領域でつながっているとすれば
一人一人が
みずからのおそれと向き合い
一つ一つ手ばなしていくなら
その作業は
徐々に楽になっていくのではないでしょうか
短い期間ではありますが
この10年
じぶんの内側を観る作業をしてきた一人として
その傾向を実感しています
10年前に比べて
そしてたぶんその前に比べればはるかに
ずっと
“じぶんをいきる”ための環境は
調っていると言えそうです
東京湾
<水平線が水平になっていない点 ご容赦下さい>
昨日
十余年ぶりに
東京湾フェリーに乗りました
三浦半島の久里浜港と
房総半島の金谷港をむすぶ
片道約40分の船旅です
初めて乗った前回は
少し船酔いしましたが
今回は波が穏やかだったので
海からの眺めを
存分に楽しむことができました
途中
液化天然ガスを運ぶタンカーとすれ違い
そのことを告げる船内放送を聴きながら
改めて
うみによってつながっていることを
実感しました
古の時代
人びとは
陸路よりも海路を活用していたと言われます
縄文時代の人びとが
縦横無尽に大洋を移動するさまを
連想するたび
心躍るものがあります
房総で乗ったタクシーの運転手さんが、
太平洋の海水は
房総半島から東京湾に注ぎ込み
三浦半島側から
流れ出る、
と話して下さいました
真鶴から出兵し
房総半島に上陸して
江戸の地を制圧した
源頼朝は
まるで
その流れに乗ったかのように思えます
調べてみると
黒潮は
幾つかのルートを取るものの
そのいずれにおいても
房総半島は
要所となっています
前出の運転手さんによれば
房総半島は
北の人と南の人が交わっている地
なのだそうです
実際 その方も
父方から東北のチを
母方から紀伊半島のチを
ひいていらっしゃるとのことでした
大型船や
水先案内の船が行き交う景色を見ていると
古の時代の風景と重なるように観えてくるから不思議です
人類は
幾度となく 旅をしながら地球上に広がっていき
その過程で
望まない形もあったにせよ
様々に混じり合い
そして今も
混じり合って
あらたな世界をつくっています
まじわることで
あらたなながれが
うまれます
地産地消や身土不二
の
原理原則は理解できますが
具体的に
ひとやものが
交わることでしかうまれないものもあるはずです
人が
一カ所に留まっていたとしても
そのまわりを取り巻く
水や空気や大地は
地球上を循環しながら
まじりあい
かわりつづけています
*
人類がまだ現れていない
3億年前
東京湾は陸地だったとか
陸が現れ
陸が沈み
そんなことを繰り返して
この地球は
いまの姿になっていて、
そのなかで
生物たちの様々ないとなみが
おこなわれ つづいてきた
ことを考えると、
なにか言い知れぬ
いとおしさのようなものを感じます
ひとつらなりのなかで
これからも
そうやって
わたしたちは
変わり続けていくのでしょう
天の泉のしづく
旧暦霜月の朔の日の夕暮れ
燃えるような太平洋の水平線上に
輝く宵の明星が
とても印象的でした
(写真では 上空の中央よりやや左側にぼんやりと映っています)
宵の明星が一番明るくなるのは12月7日とか
これから数日は 三日月と並ぶ姿が楽しめそうです
現在 宵の明星である金星は
来年の1月11日に地球を追い抜いて
明けの明星へと変わっていきます
霜月の異名の一つが 天泉
その由来は知りませんが
天泉のはじまりの日に見た輝く星は
天の泉からのひとしづくのように思えました
コペルニクスの発見によって
天と地
の概念から
宇宙のなかの地球
という認識に変わったにも関わらず、
人間の意識は
まだまだ天と地という枠組みの中にあります
天の泉
という
天の始まり
をイメージする名を持つこの月に、
二元論的な枠組みから
そろそろ
自由になれるといいですね