おりおりに 出逢った      「すきなもの」を      縦横無尽に ご紹介
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みずからいきる


12月5日の午後8時50分頃(*現地時間)

ネルソン・マンデラ氏が逝去されました



本日届いたメールマガジンで触れられていた

マンデラ氏の言葉に感じるものがありましたので

こちらでも紹介させていただきます



大統領就任演説での一文のようです

(私の判断によって 一文と一語を省略してあります

もう「神」というコトバは必要ない時代に入っていると思うので…)










われわれが最も恐れているもの

それは自分が無力だということではない


われわれが最も恐れているもの

それは

自分には計り知れない力がある

ということだ



われわれが最も恐れているもの

それは我々の光であって

闇ではない


我々は自分に問いかける


自分ごときが

賢く 美しく 才能にあふれた素晴らしい人物であろうはずがないではないか?


だが

そうであってなぜいけない?


あなたが遠慮をしても世界の役には立たない


まわりの人が気後れしないようにと

あなたが身を縮めることは

何の美徳でもない


われわれは

自らのうちにある栄光を表すために生まれてきたのだ


そしてそれは限られた人のものではなく

すべての人の内にある


われわれが

みずからの内にある光を輝かせるとき

無意識のうちに他者に対しても同様のことを許している


われわれが

自分の持つおそれから自らを解放するとき

我々の存在は

同時に他者をも解放する









ほんとうの意味で他者のためになるのは

その人が

その人の人生をいきること


ずっと そう観じてきました

(そのようにできているかどうはか別ですが…)



とかく

他人を助けるためにという理由をつけて

わたしたちは救世主になりたがります


あるいはその裏返しとして

救世主を無意識のうちに求めます



他者を助けることがいけない

と言っているのではないのです


ただ

「他人のため」という響きのいい言葉は、

みずからの内にある恐れを

意識に浮上させないために

あるいは

自分自身の問題に

向き合うことを避けるために

使われることが

自分を振り返ってみても

少なくありません



マンデラ氏がここで言う

「自分が素晴らしい人であるはずがない」

という思いは

実際

自分のなかにもありました


それは

他者を貶める意識が積み重なった

長年の歴史が作り上げてきた集合意識の影響を受けているとも言えるのですが、

その影響を受けることを許しているのは

他ならぬ自分です




他人を妬む気持ちは

自分を貶め妬む気持ちの裏返し


まわりのせいにしたり

他人を思い通りにしようとするのは

自分の可能性をおそれ

自身を縛っている意識のあらわれ



みずからの可能性をひらいていくためには

みずからのうちにある怖れと

向き合わなければなりません



ひとつ手ばなすごとに

身も心も

自分という存在が

軽やかになっていきます



ひとの可能性に限りがないのであれば

ひとは

おそれと向き合い続けていく

ということになるのでしょう



でも

ひとの意識がどこかの領域でつながっているとすれば

一人一人が

みずからのおそれと向き合い

一つ一つ手ばなしていくなら

その作業は

徐々に楽になっていくのではないでしょうか



短い期間ではありますが

この10年

じぶんの内側を観る作業をしてきた一人として

その傾向を実感しています



10年前に比べて

そしてたぶんその前に比べればはるかに

ずっと

“じぶんをいきる”ための環境は

調っていると言えそうです



【余談】


「自分が素晴らしい人であるはずがない」

という意識や自分の内にある恐れを手ばなすとき、

それを打ち消そうとして

「自分は素晴らしい人である」というような 肯定的な思いや意識を持とうとするのは、

仮にその場はうまくいったとしても

結果的に別の不要なものを抱え込んでしまうことになります



無肥料無農薬の自然栽培において

土が抱え込んだ余計なもの(*肥料の毒という意味で「肥毒」と言います)を取り除くことが

重要なポイントであるように、

人の意識の場においても

不要なものを取り除くことがポイントと思われます


不要なものを取り除けば

そのものによって留められていたもの(=可能性)は

自然に流れ出し あらわれてくるのではないでしょうか



可能性というものは

そのとき(の自分)にはみえないものであり

未来に向かって 展開していくもの


これから育ちひらいていくであろう流れ(=可能性)を

限定された意識によって象った言葉で枠に入れてしまうのは

本末顛倒であって

あまりにも もったいないことです



すすむみちは

あらわれてくるのであって

誰かに決めてもらうことでないのは言うまでもなく

予め決めるものでもないのだろうと

観じています



この文章を書きながら

故スティーブ・ジョブスの

スタンフォード大学の卒業式における有名なスピーチを思い出しました



「将来をあらかじめ見据えて

点と点をつなぎあわせることなどできません


できるのは

後からつなぎ合わせることだけです


だから

われわれは いまやっていることが

いずれ

人生のどこかでつながって実を結ぶだろうと信じるしかない


運命 カルマ… なににせよ

われわれは

何かを信じないとやっていけないのです


私はこのやり方で後悔したことはありません


むしろ

いまになって大きな差をもたらしてくれたと思います」



いまの私は

信じるというより

「任せる」

という実感/実観とともにあります