おりおりに 出逢った      「すきなもの」を      縦横無尽に ご紹介
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春の庭から














あたりは

花が散り新緑芽吹く 山桜

花びらが舞う ソメイヨシノ

遅咲きで満開に向かう ソメイヨシノ(かな?)

蕾が開き始めたばかりの 枝垂れ桜に八重桜




桃の花は

花期が長いのでしょうか

相も変わらず

今もたわわの花盛り




鮮やかな黄色が流れる

山吹は

風に揺れ


 


土色だった大地は

さまざまな緑の色に埋め尽くされて




春の庭は

諦めていたもの

忘れていたもの

も含め

たくさんのいのちの芽吹きで溢れています


























をどる














【 を ど る 】




足に力をこめて飛びあがる。

「舞ふ」は水平に旋回する意であるが、

「をどる」は高くはねて、跳躍する動作をいう。


<『字訓』より>






「踊り(踊る)」の語源は、

「お」が「尾」で「どり(どる)」が「とどろく」の意味とする説や、

「繰り返す」という意味の「ヲツ」と関係する語といった説、

「をとぶある(小飛有)」の意味など諸説あり未詳である。

(略)

本来、「おどり」は

「跳ね上がること」「飛び跳ねること」など躍動運動を表す語であった。

また、「舞踏」の意味として「踊り(踊る)」が用いられた例は

中世末期頃から見られるが、

当時の踊りも跳ね上がるような動きであったと考えられ、

日本芸能においての「踊り」も、

「舞い」と区別して躍動運動を主体とした動作を指し、

音楽や歌に促されて踊るのではなく、

自らがリズムを作り踊るものをいった。


「語源由来辞典」のサイトより>










水平運動である「舞ふ」では

与えらえた枠組みを

超えることはできません




現状維持のための

支配の道具ともなりえます




奉納の舞い等に感じる違和感は

そんなところにあるのかもしれません




進んでいくための

歩いていくための

身体表現

そして

“思考としての身体のありよう”として

機能するのは

「をどる」

こと

なのでしょう




既存の枠組みを見直し

超え

未知の可能性へ

開いていく

カラダ



いのち





“音楽や歌に促されるのではなく

自らがリズムをつくる”

「をどる」



自らのペースを知ることであり

自らの場を自らつくっていくこと

でもあります




田中泯さんが

「踊り」とは心のありよう



おっしゃっていたことを思い出します




身体は動かなくても

心は踊ることができる、






そしてまた

音楽に乗って踊るカチャーシーではなく

言葉にならない表現のあわられとして踊られるカチャーシー

のことも

思い出すのでした









 



















 
































ふと見れば













な に げ な く

サ ラ ダ

と り わ け

ド キ ン







イ キ イ キ

あ ざ や か

い の ち の あ か し










あらわす












この土曜日

現役のダンサーである知人がやっている

ダンス・スタジオの発表会へ

行ってきました




踊りを観るのは

2012年の荒川修作さんの命日に養老天命反転地で行なわれた

田中泯さんの「場踊り」以来




ちなみに

今回発表会に誘ってくれた彼女は

田中泯さんとも共演したことがあるようです

(ウェブで検索したら そのような記述が出てきました)




カラダのことを一緒に学んでいる彼女が

どのような踊りをやっているのか

どのように踊りを教えているのか

知りたいなぁ



思っていた時でしたので

我が家からは少々遠い場所ではありましたが

伺うことにしたのでした




バレエ/コンテンポラリーダンス

という

スタジオにつけられた形容詞




これまでの

モダンバレエやモダンダンスやコンテンポラリーダンス



体験から

実はあまり期待していなかったのですが、

4歳から70歳代まで



幅広い年齢の方たちの

緊張しつつも

硬さやぎこちなさもありつつも

踊ることを楽しんでいる様子が伝わってきて

お世辞抜きに

楽しい時間を過ごすことができました




私の記憶が確かならば

あるテレビ番組で

田中泯さんが

「踊りとはカラダを動かすこと(だけ?)ではない。

こころが踊るのだ。」

というようなことをおっしゃっていましたが、

そういう意味において

「おどり」

そのものを

楽しませてもらったのでした




全身を使って

カラダ全体で

あらわすことの

たのしさ



よろこび



ここちよさ




中でも私の目を引いた

一人の女の子



安定したカラダと

流れるようなうごきは

「踊り」とか「振り」とか「表現」といったものの

枠が薄れ

いのちの躍動そのもの



ようでした




あらわれ方は

まったく違うものの

先日観た

井上有一さんの書に

通じるものがありました




コトバ以前の

そして

コトバにできないものの

あらわれ



文字とオトと動きをひとつとして

あらわされた

井上さんの書



まるで

コトバが発生する現場を垣間見たような

かんじです















帰り際に頂いた花を

飾ってみると

まるで

発表会の

たのしくて はなやかで あいらしく 女性らしい

雰囲気

そのままのよう






















そんな気持ちでいると

枯れて落ちた花びらも

なんだか

踊っているように見えるから不思議です(笑)















 おどり



ことば




ことば



おどり















@本日 夏至




@昨夜の西の空の 月と木星と金星の輝きは

とても印象的でした









<三日月の形だったのに ぼやけて半月みたいになってしまいました。。。>


わきたつ地と熱











昨日

「遠くて近い 井上有一展」



行ってきました




この春

あるお店で

井上有一さんの「菜の花」という書を観たときの

痛烈な印象が

けっこう なまなましく残っていたので、

「菜の花」の書を一緒に観た 彼の書が好きだという友人から

展覧会への誘いがあったとき

しばらく悩んだものの、

好き嫌いを超えて

なにか鮮烈なものを孕む

彼の存在に

あらためて触れてみようと思ったのでした















彼の書に出逢ったのは

今年の春だとばかり思っていたのですが、

前日

展覧会へ行くことを伝えた家人から

既に出逢っていたことを

知らされました







あれは確か

1993年の夏のこと




文化人類学者の山口昌男さんが

廃校を利用して始めた

「喰丸文化再学習センター」の開所祭




福島県昭和村の喰丸小学校の体育館



天井から吊り下げられた

何枚もの

「貧」




冒頭の写真が

それです




ほとんどの写真を処分したときの

選別をくぐり抜けて

幸いにも

手元に残っていました

相撲の廻し姿の山口さんのお尻の写真
処分してしまったのは もったいなかったなぁ…)





改めて見ると

ちゃんと

「井上有一」

という字が

したためられた一枚も




一緒にそのイベントに参加した家人が

そう言うのですから

そのとき

井上有一さんのことが

紹介されたのだと思います

が、

私の記憶には

まったく

とどまっていませんでした




ただ、

地域の小学生が描いたのだろうと思っていた

「貧」



文字



個別の形や存在は記憶になくとも

その文字がかかっていた時空の

空気感のようなものは

ずっと

覚えていたのでした







昨日

あらためて出逢った彼の書は

文字という

“通常の規定の枠”を突き抜けた

ひとつの存在

でした




「表現」

というような

意図をわずかにでも含む行いすら超えた

おのずから

噴出するエネルギー




会場の入り口に掛かっていた

「月山」







まるで

この週末に訪れた

火山島の

溶岩

のようでした




マグマのエネルギー

地球の熱




いま読んでいる本には、

無機物・有機物を問わず

非生物・生物を問わず


地球の進化は

地球の熱の放出による「エントロピーの減少」

によってもたらされている

構造の秩序化である、

という説が

提示されています




「死」

という





エントロピーを小さく保つ生命の営みが

最期を迎えたとき

微生物によって分解され

熱力学第二法則に従ってエントロピーが極大となり

大気や大地へと還っていく

プロセスそのもののようでもあり、

また

一本の腸だけだったとされる

初期の脊椎動物



うごめきのようでもありました




そういえば

井上さんが亡くなったのは

1985年6月15日


私たちは

命日のすぐ後に

展覧会へ伺ったようです




「死」




会場の撮影はできなかったので

書そのものを

ここでお見せすることはできないのですが

(カタログを買っておけばよかった…)

他のサイトから

似た書を見つけることができました









こちらのサイトからお借りしました>







これは

「恵」


という書




もう一枚

似た雰囲気を持つ書がありました









こちらのサイトからお借りしました>







こちらは

「老」

という書





死と恵と老



似ている

というのは

とても興味深いです




最後は

昨日の展覧会にはなかったのですが

一緒に行った友人が好きだという文字

(この書が好きかどうかは不明です)









こちらのサイトからお借りしました>







特注の太い筆を抱きながら

あるいは

コンテを握りしめ 声に出しながら

全身を投げ出して

紙に向かう

井上さんの姿に、

いのちとカラダとコトバと音と動き



一体となってあらわれる

「ことば」



素のままのすがた

原初のすがたを

あるいは

エントロピーが極大の混沌の世界から

創造という営みによってエントロピーを減少させる

いのちの事場[=ことば]

というものの成り立ちを

観ることができたのが、

私にとって

今回最大の恵みでした
















【余 談】


アップルのトップページから消えていた

「その時がやってきた」



文字



展覧会から戻ってパソコンを開くと

再び

トップページに戻ってきていました




すずやかに











支柱を添えようと思っていた

庭で横倒れしていた花




ガラスの器に活けてみると

その色の

なんと

涼やかなこと















昨日刈り取った

ラベンダー

ともども

薄紫色の風が

通り過ぎてゆきます






















植えてあるハーブが蒸れるからと

収穫したものを

先日

大家さんが

おすそ分けしてくださいました




ローズマリー

レモンバーベナ

などなど

香り高いハーブたち












  


部屋に吊るして

お風呂に入れて




いろいろと

籠もりがちな

梅雨の時期




自然の香りで

すずやかに













風の花











ギリシア語で「風」を意味する

Άνεμος(anemos)



その名が由来する

アネモネ




暖かい風に促されて開花し

強い風によって花が散り

長い毛を持つ種が

風に乗って運ばれることから

そう呼ばれているようです




寂しい冬の庭に彩りを

と思って植えた

三色のアネモネ




花言葉は

赤は 「君を愛す」

白は 「真実」「期待」「希望」

紫は 「あなたを信じて待つ」

であることを

後から調べて知りました








このアネモネ

アルメニアの国花なのだそうです





アルメニア人は

自らを ハイ(Hay/複数形はハイクHayk)

国を ハヤスタン(Hayastan)と呼び、

正式名称も

ハヤスタニ・ハンラペトゥテューン(Hayastani Hamrapetut'yun)

となります




アルメニアの始祖であり ハイ族の長である

ハイク・ナハペトは、

箱舟がたどり着いたアララト山の麓に住んだ

ノアの玄孫

とのこと




通説では

301年に世界で初めてキリスト教を国教としたのが


アルメニアです




ハイク/アルメニア人



「12世紀にアルメニア王国や東ローマ帝国が衰退・崩壊した後は

世界中に拡散し

商工業の担い手として各地にネットワークを広げてき活躍した」

(Wikipediaより引用)

そうで

アルメニア人の7割は国外在住とも言われ、

そんなディアスポラの民に

風の花「アネモネ」



ふさわしい



言えるのかもしれません





軍事と商業に長けていたとされる

ハイク/アルメニア人




その花は

これから

どんな風にのって

この地球に

広がっていくのでしょうか




…と そんなことを書いていたら

中島みゆみさんの

『EAST ASIA』



思い出しました







降りしきる雨は霞み 地平は空まで

旅人一人歩いてゆく 星をたずねて

どこにでも住む鳩のように 地を這いながら

誰とでもきっと 合わせて生きてゆくことができる

でも心は誰のもの

心はあの人のもの

大きな力にいつも従わされても

私の心は笑っている

こんな力だけで 心まで縛れはしない


(略)


モンスーンに抱かれて 柳は揺れる

その枝を編んだゆりかごで 悲しみ揺らそう

どこにでもゆく柳絮[りゅうじょ]に姿を変えて

どんな大地でも きっと生きてゆくことができる

でも心は帰りゆく

心はあの人のもと

山より高い壁が築きあげられても

柔らかな風は 笑って越えてゆく

力だけで 心まで縛れはしない


(略)


世界の場所を教える地図は

誰でも 自分が真ん中だと言い張る

私のくにを どこかに乗せて

地球は

くすくす笑いながら

回ってゆく


<『EAST ASIA』より>







この曲が歌われた

1992年の夜会VOL.4「金環蝕」



古事記の「天岩戸」をモチーフにした

日本女性の原点がテーマ



Wikipediaには記されています




「アメノウズメノミコトという

歌と踊りをつかさどる女神が

日本神話に出てくるんですけれど、

だいたい神話に登場するキャラクターというのは

後の世の人間にも多かれ少なかれある いろんな要素の

極端な形だと思えるんです。

ならば

アメノウズメノミコトは

いま いったい どこにいるのだろうかと、

それがこの夜会のテーマになりました。



そして もう一つ。

天岩戸伝説の中で

アマテラスオオミカミが

暴力に嘆いて抵抗したはずなのに

結局 暴力でまた王座に連れ戻されてしまう

というストーリーが

私としてはどうも納得いかなくて

気にかかっていたので、

アマテラスオオミカミの気持ちは

いったいどうなったんだろうと、

そこのところに

目を向けたいと思いました。」


(あるテレビ番組の中での 中島みゆきさんの言葉より)







日本神話に描かれるアマテラスオオミカミは

ダミーで、

暴力を嘆いた

本当のアマテラスは

力づくで引き出されることなく

傷ついたまま

いたみつつ

いま このときも

それぞれの人の

イワトの奥深く

隠れているように思えます




やわらかな風にのって

彼女が

花ひらき

世界に広がっていきますように



はるの食卓










昨日の催花雨が潤した庭から

剪定を兼ねて

新芽を

摘み、

グラスに活けた残りを

箸置きにしてみました




ターシャ・テューダーさんの番組をきっかけに

庭というものについて

改めて

気づかされることがあり、

初めて抱く感覚と共に

私は

庭の中にいたのでした







今日は

旧暦如月の朔


そして

日本では観測できないものの

皆既日蝕でもあります




明日は 春分

二十四節気の始まりの地点

新たな一年の始まり とも言えます



(なんと 冬至から数えて5度目の新年(笑)


冬から春にかけて

季節は幾たびも

再生や出発の節目を

用意してくれているようです)




ソメイヨシノの開花も

近づいていて…




いよいよ

春本番

です












いのちのき










この週末たずねた地域の

東[キ]の地に

うねるような枝と根を持つ

大きなクスノキがありました




岡本太郎氏の造形



メドゥーサ



想起させる

その姿




いのち



ほとばしり



かんじさせます







ある寺院の庭園では、

白砂に同心円が描かれた庭を

解脱の状態を現した

とするのに対し

六道の状態を現したとする庭は

さまざまな苔が生していました




それが 私には、

いのちの

複雑性や不可解やありのままを削ぎとったものを

理想の状態

と捉えているように思われ、

実態から離れ

抽象へと向かう

一神教に象徴される宗教の

ある側面を現しているように

観じられました




いわゆる

「生命の木」

とされるものも

それが紋様であるがゆえに

左右対称化したり

抽象化しており、

どうしても

本来のいのちに対する

表層感や浮遊感が

否めません




岡本太郎氏が発見するまで

その芸術性が気づかれもしなかった

縄文土器



後から来た者たちによって

怪物に貶められた

メドゥーサ

が象徴する

つよく しなやかな

原初の生命力のようなものを、

この

オオクス

から

かんじることができます




そして、

この樹のある場所が

歴史に大きくかかわりながらも

その真実の姿が表に現れることのなかった(とされる)方たちに

ゆかりあることが

非常に

興味深く思えるのでした









【補 記】




吉本隆明さんの『最後の親鸞』の文庫版の解説として書かれた

中沢新一さんの文章を読んで

興味を覚えた

親鸞




エリート僧が集う「お山」を降りて

大衆の中に入っていった

彼は、

九歳のときに

この場所で

得度したそうです





親鸞のなかでは、

自分は煩悩のつくる世界を否定しているということを

外に向かって表示する、

いっさいの「僧」のしるしなど

なんの意味ももたないものになっていったし、


念仏を選ぶかそれとも捨ててしまうかの決断さえ、

「面々の御計」として、

各人の自由にまかされてしまっている。

こうして、

親鸞の思想のなかでは、

「信心」でさえ、

もはや「理念」や「宗教」への信仰などから、

自由になってしまった。

(略)

吉本隆明は

親鸞が切り出してみせた
「造悪論」のなかに、


未知の倫理の発生すら予感しているのだ。


(中沢新一著『ミクロコスモス ー耳のための、小さな革命ー』P.118〜P.119)





鈴木大拙氏に言わせるなら、

日本人の精神が

大地に根ざしたのが

鎌倉時代




親鸞は

その

強力な媒介となったのでした















霊性は、大地を根として生きている。

萌え出る芽は天を指すが、

根は深く深く大地に食い込んでいる。

それゆえ平安文化には宗教がない。

平安人というは、

大地を踏んでいない貴族である。






我らは大地そのものである

ということに気付くと、

ここが直ちに畢竟 浄の世界である。

考えそのものが大地になるのである。

大地そのものが考えるのである。

そしてここに日本人の

宗教的信仰的自覚があるのである。

これを日本的霊性的自覚という。



(鈴木大拙著『日本的霊性』より)


階段










<みたからのうた>




みなそこの

いのちのかいだん

ふみ

しめて



おにが

まもりし

みたからを



あかき

ちしおの

あかしとて



いかし

たまへと

かがやくは



朝日さす

夕日が照らす

星星と



あわき

おもかげ

いま

ひととなり












@2015/01/19(月)





いのち うぶすなのこころ







昨日

鉛筆画家・平野峰生さんの個展を

拝見してきました




友人が平野さんと対談する

ということで知った

この個展


何の事前情報も持たずに

対面した

平野さんの絵は、

出会った方

ひとりひとり

それぞれの

輝きに

あふれていました



描かれている方の多くが

ご高齢である

ことを考えると

少々語弊があるかもしれませんが

「遺影にしたいなぁ」



思わせる何かを

その絵はたたえていたのでした







奥三河の里山の風景を描いていた

平野さんが

肖像画を描くようになったのは、

その里山の美しさをつくっているのは

そこに住む人たちが

その地を愛し

手を入れ続けている

その心である

ことに気づいたこと



きっかけだったと言います




『風景はそこに住む人の心映え』

とは

平野さんの言




確かに

わが身を振り返ってみても

家の中や庭の在りようと

己の心の状態は

鏡のように映し合っています




そう気づけば、

通常

生まれた土地(の神)を意味する

産土(うぶすな)という言葉は、

もっと広く

「土地と交わり

土を産(はぐく)む

こころ」



捉える方がふさわしい

ように思えてきます




それは

「つち と ひと」



限らず

ひと と ひと

ひと と モノ

ひと と コト

など

ひとが関わるすべてに対して

言えるのではないでしょうか




平野さんに肖像画を描いてもらった

一人の方が

その

“まじわり”



「いのち」



表現しておられました




いのちは

ひとりひとりのなかにあると同時に

ひとの関わりによって生まれ

そのなかにもある…



平野さんが

絵における余白について尋ねられたとき、

物質としては紙の色でしかない

その白が

描き方によって

眠りについている村に降り積もる雪の白

にも

棚田に勢いよく流れ込む清水の輝きやしぶき

にも

その方が生きてきた人生を刻む顔を照らす光

にもなる



おっしゃっていたことを

思い出します




ひとりひとりのいのち



鉛筆画における鉛筆

のようなものなのかもしれません



ひとつのいのち

というつながりを

さまざまな風景に描き分ける

鉛筆の陰影ような…
















【追記】


「風景はそこに住む人の心映え」

という視点から

この国



町並みや公共建造物

について

考えてみることで

あらたな なにかが

うまれてくるかもしれません

美という自然








この数日のあたたかさで

庭のスモモは

満開で、

窓を開けると

ひかえめな香りが

そ  っ と

流れてきます



その香りに寄り添うように

部屋に活けた

フリージアの香りが

はるの

やわらかな あかるさを

運んできてくれます



色と香りのはたらきには

まだまだ窺い知れぬものがあるのでしょう




染められた色や

取り出された香りも

よいですが、

やはり

自然の色と香りの

押しつけのない“自然さ”に

勝るものはないようにも

思えます



全体性を保持した

「ひとつ」

のものは

これみよがしでもなく

押し付けがましくもなく

ごくごく自然なのかもしれません



『LA BELLEZA』で歌われる

「美(la Belleza)」

のように…





Cuando la belleza pase

quizás

no nos demos cuenta


美が通り過ぎるとき

たぶん

わたしたちは気づかない