いのち うぶすなのこころ
昨日
鉛筆画家・平野峰生さんの個展を
拝見してきました
友人が平野さんと対談する
ということで知った
この個展
何の事前情報も持たずに
対面した
平野さんの絵は、
出会った方
ひとりひとり
それぞれの
輝きに
あふれていました
描かれている方の多くが
ご高齢である
ことを考えると
少々語弊があるかもしれませんが
「遺影にしたいなぁ」
と
思わせる何かを
その絵はたたえていたのでした
*
奥三河の里山の風景を描いていた
平野さんが
肖像画を描くようになったのは、
その里山の美しさをつくっているのは
そこに住む人たちが
その地を愛し
手を入れ続けている
その心である
ことに気づいたこと
が
きっかけだったと言います
『風景はそこに住む人の心映え』
とは
平野さんの言
確かに
わが身を振り返ってみても
家の中や庭の在りようと
己の心の状態は
鏡のように映し合っています
そう気づけば、
通常
生まれた土地(の神)を意味する
産土(うぶすな)という言葉は、
もっと広く
「土地と交わり
土を産(はぐく)む
こころ」
と
捉える方がふさわしい
ように思えてきます
それは
「つち と ひと」
に
限らず
ひと と ひと
ひと と モノ
ひと と コト
など
ひとが関わるすべてに対して
言えるのではないでしょうか
平野さんに肖像画を描いてもらった
一人の方が
その
“まじわり”
を
「いのち」
と
表現しておられました
いのちは
ひとりひとりのなかにあると同時に
ひとの関わりによって生まれ
そのなかにもある…
平野さんが
絵における余白について尋ねられたとき、
物質としては紙の色でしかない
その白が
描き方によって
眠りについている村に降り積もる雪の白
にも
棚田に勢いよく流れ込む清水の輝きやしぶき
にも
その方が生きてきた人生を刻む顔を照らす光
にもなる
と
おっしゃっていたことを
思い出します
ひとりひとりのいのち
は
鉛筆画における鉛筆
のようなものなのかもしれません
ひとつのいのち
というつながりを
さまざまな風景に描き分ける
鉛筆の陰影ような…
【追記】
「風景はそこに住む人の心映え」
という視点から
この国
の
町並みや公共建造物
について
考えてみることで
あらたな なにかが
うまれてくるかもしれません