おりおりに 出逢った      「すきなもの」を      縦横無尽に ご紹介
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虹 わたる








小雪の初候

「虹蔵不見(にじかくれてみえず)」


最終日の朝




靄がかがやく

里山に

やわらかな虹



かかりました













共時性 協事生









「今日が始まり」




友人が

夕日に輝く海を見ながら

そう言った昨日、

私がずっと心待ちにしていた技術が

実用化に向けて動き始めたこと



今朝知りました




そのことを伝える記事を書かれた方も

あたらしい時代が

いよいよ

始まったこと



実感されているようでした




言葉や舞や歌をおろす

いわゆる

“かみごと”や“奉納”

そして

様々なご神事

といった

神(の使い)としてのはたらき



もはや

人の歩みを阻むものになってしまったことに

はっきり



気づいた

昨日でもあり




これらのことは

この国の本当の歴史と現実に

私たちが向き合う時を迎えたことを

意味しているように

私には思えます




それは

一貫してこの国を支えてきた

天皇制というものについて、

つまりは

この国のあり方について

私たちが

真剣に考えることへも

つながっていくのでしょう




「秘史」という言葉が付された

一連の本の中で

直接裏を取りようがない

でも

個人的にはとても腑に落ちる

情報に触れながら、

もしもこれらのことが本当であるなら

私たち日本人には

かなりの覚悟が求められるであろうことを

かんじています





でも

偽りの認識

偽りの土台



上には

何も築くことができません




カラダとイメージ(=意識)と言葉が一致することで

ひとが

ひととして

いきることができる

ように

現実とイメージ(=意識)と言葉(=理解)が一致することで

ひとは

未来をつくっていくことができる

のだと

思います
























色気










日本を代表するエディブル・フラワー






バナナとヨーグルトのうえに

二輪

散らして

アガペシロップを垂らしてみました




今年の夏

栄養士の方から、

食事のバランスを整えるときに

色合いを考える

というやり方を教わって以来、

気がつくと

色を増やすようにしています




一色増えるだけでも

見た目が華やかになり

ちょっと

心ときめいたりもして

いただくことが楽しくなるから

おもしろいものです




冬に向かって

アースカラーに染まりゆく

我が家の庭

にも

ウインターコスモスなどを植えて

少し色を添えてみました




やっぱり

色気は大切だな



いろいろな場面で

しみじみと

実感する

今日この頃です










fーいのちー黄金の夢



こちらのサイトからお借りしました>






ヴァイオリンをひらく

f

川の流れに
あらわれる音



カラダをひらく

f

地から
天から

地と
天と

しなやかに
強靭に
はずみつつ
動きつつ

tensegrity

ひとつにすべる

ひとつのかたち



ひとつから
うまれた
ふたつの渦

むすひめ
ひらいて

f

すすみゆくながれ



一滴のしずくは
地を

川を
海を
空を
旅して


sogni d'oro


黄金の夢に









佐々木昭一郎さんが

約20年ぶりに制作した映画の公開に合わせて

佐々木さんの作品が

五夜に渡って放映されました



私が彼を知り

今でももっとも印象深く心に残っている

“川・三部作”の一つ

「川の流れはバイオリンの音」



久しぶりに観て、

変わらないものと

変わったものを

かんじつつ

いまだからこその

新たな発見もありました









こちらのサイトからお借りしました>





みのりのいろ









秋を携えた籠



届きました




秋の神であり秋の季語である

竜田姫は

鮮やかな秋の色の錦を纏う姿としてイメージされるとか




四季折々の色は

どれも美しく

いずれも身に纏いたくなるものばかりですが

中でも

実る秋の色は

ひときわ

心ときめきます





豊かな色と書いて

「艶」



「豊」の字源は

豆(たかつき)の上に収穫した穀物の穂を山盛りにした様で、

その意味は

農作物が多く収穫されること





まさに

実りの色は

どこか艶っぽいのです







 
























過去を包含した未来への変容









建築博物館ギャラリーで

「東京オリンピック2020から東京を考える」展が

行なわれていました




「新国立競技場案」「オリンピック選手村代替案」

「オルタナティブ・オリンピック」「ポスト・オリンピックに向けて」

という 4つのテーマに添った展示の中に、

新国立競技場国際デザイン・コンクールの最終審査候補の一つだった

田根剛さんの「古墳スタジアム」



ありました











「明治神宮、新宿御苑、赤坂離宮、皇居、外苑は

大都市の中にある巨大な森である。

外苑に建つ新国立競技場が新たな東京の中心として森で覆われ、

都市文化の記憶を内包する形象の杜として受け継ぐ為の場所の提案だ。

明治神宮が100年の森を育てたように、

外苑でもこれからの100年へ向けたひとびとが集まる強い杜をつくりたいと思った。



建築はひとびとが集まる場所をつくることだ。

場所はひとびとが集い、

場所は全てを受け入れる。

ひとびとが集まる場所をつくるために、

建築は常に存在するのだ。」











コンペの最終候補の中で

私がもっとも気に入っている案です



その理由は

上記に引用した田根さんの文章に加えて、

東京の地もそうであるように

そこにあった丘や山を切り崩す方向で

進んできた

これまでのまちづくりや建築という行為を

見直し

新たな道筋を創っていく

端緒となるように思えることです



そして もう1つ



古の時代

墳墓建設の役目を担っていた土師氏は、

墳墓がつくられなくなってからは

土木建築をはじめとする

あらゆる雑役に携わったと言います



その背景を踏まえて

いま現在

「都市の中に墳丘を建設する」

ことを考えると、

建設という営みの歴史の始まりと最先端が交わる

刺激的な出来事のようにも思えるのです













大和政権における土師部(はじべ)の部民(べのたみ)は、

本来土師君の下で大型墳墓の造築に当っていた建設労働者ですが、

簿葬令によって失職の憂き目に遭うべきところを、

土師君が時の政権に働きかけて、

難波堀江の開削や茨田堤の築造、

さらには計画直線道路(いわゆる官道)の敷設を始めとする

大型の公共土木工事を請け負ったおかげで仕事にありつけたことは、

『落合秘史・南北朝』に述べました。



ところが大型公共工事の一巡と共に土建労働力は過剰になり、

かといって旧(もと)来た朝鮮半島に追い返すわけにもいかず、

折から隋唐帝国の影響で成立した律令政権にもなす術がない折から、

澎湃(ほうはい)と勃興して

これらを救った勢力がいました。

それが行基の率いる民衆仏教勢力だったのです。

その指導者の出自は、

朝鮮半島由来の王仁(わに)氏の分流で西文(かわちのふみ)氏とされますが、

土師氏の出自とする説も有力です。



(略)



さて、

大和朝廷時代には土師宿禰(すくね)の配下にあった土師部の部民は、

社会が律令制に移行すると特定職能のない非農業者として

律令の外に置かれ、

半島から間断なく渡来する大陸の流動民と一緒くたにされて役民(えのたみ)と呼ばれ、

土木建築を始めあらゆる雑役に携わりました。



律令国家は、一面では国家仏教を奉ずる仏教国家でしたが、

仏門で生活するには、

難関を経て官僧になるしかなく上流階級のエリートしかなれません。



したがって、律令民に編入されない役民は納税しない非国民とされ、

官僧になるどころか

仏の教えにも与れない者とみなされて、

仏教用語で「非人」と呼ばれる慣習が生まれました。

古代・中世の社会で非人(無籍非農業民)と称された人々の末流は、

やがて特定地域に生活の根拠を置き、

半ば定住するようになりますが、

その地域が荘園用語を以て呼ばれたのが、

ここにいう「散所」なのです。



散所の淵源は、

街道沿いの「宿」や港湾の「津」、

大社寺の門前および「別院」、有力者の居館などの近傍で、

様々な非農業役務の従事者が、俗に非人と呼ばれて集住した地区です。



貨幣の浸透により進展する「非人経済」を、

大寺院などの荘園領主が「田畑経済」に取り込む目的で、

年貢免除などの保護を与える代償として各種の役務を課す特定地域を、

荘園内に設定しました。

これが散所で、

後世の現業職公務員の原型となる「散所の民」が、

ここに発生したのです。



[*ここに言う「非人」は、江戸時代における「非人」とは別のものです]



<落合莞爾著『国際ウラ天皇と数理系シャーマン』P.61〜P.63より>







今回

この案が実現されなくても、

いつか

どこかで

これと同じ精神に立脚する建造物がつくられることを

望みます


きせき




「あんたが奇跡になるんやで」




今日再放送された
NHK連続テレビ小説『カーネーション』の中の台詞です


病院でファッションショーを行なうことになった 主人公の糸子。
看護婦と軽い症状の患者さんからモデルを選び
準備を進めているとき
末期がん患者の女性が
モデルとして新たに加わることになりました。


病気になってから
自分のあわれな姿しか見せていない
二人の子どものために
との思いに、
重い患者さんからモデルは選ばない
と言っていた総婦長の心も
動いたようです


彼女の気持ちを聞いたあと
糸子がしゃべった下記の台詞の最後に
冒頭の言葉が出てきます



この場面を見終えて、
高齢でなくても
大病でなくても
人それぞれ 誰とも比べることの出来ない人生を生きている
格好わるくても 自分の状況に向き合って 懸命に生きている
そのことこそが 奇跡 のように思えました



奇跡とは
誰かが起こすものではなく
自分で自分に起こすもの
なのかもしれません







うちは いま 八十八や

あんた そら 八十八も たいがいなもんなんやで

カラダは あちこち 弱るしな
杖ないと 歩けんし
いつ死んでもおかしない年よって
いつおうても 娘らの顔には まず
「心配」「大丈夫なんか おかあちゃん」て 書いちゃある


ほんでもなぁ 八十五越えた辺りかいな
ごっついええこと 気づいたんや


年とるっちゅうことはなぁ
奇跡を見せる資格がつくっちゅうことなんや
例えば 若い子が元気に走り回ってたかて なぁーんもびっくりせえへんけど
百歳が走り回ってたら ほら こんだけで奇跡やろ


うちもなぁ 八十八になって
いまだに 仕事も遊びもやりたい放題や
好き勝手やってるだけやのに 人がえらいよろこぶんよ


老いることが怖ない人間なんて いてへん
年とったら ヨボヨボなって 病気なって 孤独になる
けど そのうち もう たいしたことせんでも
ウナギ食べたり酒飲んだりするだけで
人の役に立てるんや
ええ立場やろ



ほんでな あんたかて そうなんやで
わろてみ
「にー」って


ほれ ほんでもう奇跡や
末期がん患者がわろたんや

みんな末期がんなんかになったら もう二度と笑えへん 思てんねん
あんたが笑うだけで
ごっつい奇跡を人に見せられる

あんたが ぴっかぴかにおしゃれして
ステージを幸せそうに歩く
それだけで どんだけの人を勇気づけられるか 希望を与えられるか


いま自分はそういう資格… いや こらもう役目やな
役目を持ってるっちゅうことをよう考えとき



(略)



あんたが奇跡になるんやで







アジール







昨日

出かけた先では

お祭りが行われていました




主要な神社がそうであるように

この社も

縄文海進のときは

海を臨む場所だったところ

陸と海の境界だったところ



あります




林立するビルの谷間に

エアポケットのように

あり続ける

社の空間は、

日常の時空を異化する

異次元のような場所です




陸と海をつなぐ場所

日常と非日常をつなぐ場所

此岸と彼岸をつなぐ場所

“ここ”と“ここではないところ”をつなぐ場所




つい先ほどまで

橋の話を聞いていたことを思い出し、

どちらも

異なるものを

つなぐ

はたらき

があるなぁ



次第に濃くなる

透き通った

空のあお



しばし

眺めていました









よいみやの

ともしび

うかぶ

しぶやがわ

きしからきしへ

ながれの

きよき








かつて青山台地は、人間の舌のかっこうをした大きな「岬」として、

足許に海水を受けていた。

そして、

芝や三田の高台と同じように、

ここは古代からの大きな埋葬地だった。

いまの青山墓地の南西部の、

少し傾斜のはいったあたりが、

もっとも古い埋葬地の跡を示している。


(略)


青山の台地は、

死霊の支配する「自由」の空間なのである。

ほんとうのことを言えば、

この空間の中にいるかぎり、

世の中の人が普通にはどういう格好をしているだろうかとか、

どういう考えをしているだろうかとか、

そういう保守的な考えには、

いっさい縛られる必要がないのである。

「自由」の空間は、

こうしてファッションの生まれる創造的な空間となる資格を持つのである。


(略)


青山墓地でシャクジンが発見された。

ぼくはそのことにいたく感動するのである。

これは神様たちの国家管理ということがはじまるはるか以前から、

この列島に住んでいた「古層の神」の代表である

シャグジ(宿神、石神)という神様のことをさしている。

この神様は胎児の姿をして、

胞衣(えな)に守られて人の目に見えない空間に住んでいる。

シャグジの住んでいる空間は、

現実の世界の影響が及んでこないようになっている。

そのために、

この空間の内部はまったくの自由がみちあふれていた。


(略)


青山墓地を中心とした死霊の支配するその空間には、

業界人が好んで住んでいる。

ファッションメーカーの事務所やショップも、たくさんある。

そして、

そこからつくりだされる現代ファッションは、

根も葉もない自由をこそ生命としているのである。

現実のしがらみの強い土地、

たとえば霞ヶ関の近辺などでは、

ファッションの想像力はさぞかし生きにくいことだろう。

ところが、

青山はシャグジの神様の祀られていた、

死霊の住まう自由の「アジール」なのである。

そこにいれば、

業界人たちも自由に息ができる。



東京にも地霊は生きている。

青山界隈の真実の支配者は、

シャグジの神様なのである。



(中沢新一・著『アースダイバー』P.160〜P.165)





おとつれ









「天地始粛(てんちはじめてさむし)」



ふさわしく

今日は

ぐっと涼しくなり

10月並みの気温とか




なんとなく

和菓子が食べたくなり

毎月届く和菓子の

最後の1個を取り出してみたら

「高らい餅・おとずれ」



記されていました




“夏から秋へ季節の移ろい

草原に野菊が数輪つぼみをつけて

秋のおとずれを待っている”




和菓子に添えられた三輪の野菊は

花開いているので

すでに あきがおとずれた

ということになるのでしょうか







高麗餅(これもち)は

豊臣秀吉の朝鮮出兵の後 朝鮮半島の人々により薩摩に伝わったとされる

もののようです




その由来が正しければ、

当時の朝鮮半島は

李氏朝鮮でしたから

高麗餅の「高麗」は

当時の国名ではなく、

その直前の高麗にちなんだのか

あるいは

遥かむかしの国である高麗という言葉になじみがあったのか…

「朝鮮半島」を意味する一般名詞のようなものとして使われた

と考えられます




この月曜日

高句麗北部に栄えた高麗からの渡来民について

話したばかりだったので

おもいがけず

高麗の文字を見つけて

ちょっと不思議な気持ちになりました







あきのひに

季節も

人も

おとづれて

地球にいきる





<写真はこちらのページからお借りしました>





先日

ある方と話しているときに

私が

ヒトという存在に希望を抱く

きっかけとなった本のことを

思い出しました




竹村真一さんの

『地球の目線』

です



改めて

竹村さんについてネットで検索していたら

その本で伝えたかったであろうことが

コンパクトにまとめられた

映像を発見しました







「人類はまだ未熟なんです

幼年期なんです

人類全体が まだ 子どもなんです

子どもっていうことは

伸びしろが大きいってことになります

これから成長期になる



誤解してませんか?

人類は進歩しすぎて地球に迷惑をかけてる

逆です



人類は未熟すぎて

技術が未熟すぎて

迷惑をかけてる

でも

のびしろが大きくて

これから大きな可能性を持ってる」




「日本人として

これだけは分かっててください



地球に

自然に

手を加えることはよくないことだ、

それは

必ずしもそうではありません



日本人は

自然に手を加えて

よりよい地球

よりよい自然を作ってきました


(略)


日本の自然は人工自然です

でも

人工の「工」

上の棒が“天”で 下の棒が“地”で

その間をつなぐ

人の営み



人間は

やりようによっては

天と地をむすぶ

コーディネーターにもなれる、

そういうメッセージが

日本の自然には隠れてます



それを地球スケールに

広げていこうじゃないか、

そういう時代を迎えています

みなさんは そういう時代に生きてます



未来をデザインしましょう」







ほぼリアルタイムで情報が更新される

「触れる地球」

我が家にも一つ

ほしいものです












An Oasis in the Badlands





<写真はこちらのサイトからお借りしました>





昨日


大学時代の後輩と

卒業以来の再会を果たしたとき

初めて目にした

エドワード・カーティス氏の写真です




なんでも

写真を学びに渡米した

彼の父親の叔父が

帰国の際に

持ち帰ってきたものらしく、

父親の実家にあった

この写真を

彼は

幼い頃からとても気に入っていたと言います




やがて

自分のもとにやってきた

その写真の詳細について

彼が知ったのは

ほんの数年前のこと




『インディアンの言葉』

という本を

何気なく読んでいたとき

その中に

見覚えのある写真を見つけたのだそうです




冒頭の写真は

ウェブ上からお借りしたものですが、

彼が持っている写真は

エドワード・カーティス氏が得意とした「オロトーン技法」

によるもので

その画像の繊細さゆえに

しっかりとした額に入れられていました

(冒頭の写真もオロトーンです)




その写真を直接見たいと言う

知り合いとの約束を

私と会う日に合わせてくれたおかげで

思いがけず

私は

この写真を目にし

エドワード・カーティスという写真家を知る

好機に恵まれたのです




話の途中で

彼の脇にあった大きな紙袋から

この写真が引き出され

テーブルに置かれたとき

なぜか

こころがふるえる

ような

感覚を覚えました




そして

数年前に佇んだ

釧路湿原にあるアイヌの聖地だったとされる場所

思い出していました







昨日は

旧暦葉月の朔である八朔




早稲の穂が実る頃で

農民の間で初穂などを恩人に贈る風習があったそうで

「田の実(たのみ)の節句」

とも呼ばれるのだとか




<An Oasis in the Badlands>




このタイトルと

写真のたたずまい



私には

いまというときに

重なって

かんじられます


(この写真が撮られた後のネイティブの人たちがたどった歴史と重なる

ということではありません)









<彼が所有している写真
こちらのサイトからお借りしました>


涼風








あるお店の

今月のフリーペーパーに

涼やかな写真が

載っていました




日ごとに暑さが増してくる

この季節




せめて

こころだけでも

涼しく

爽やか

でありたいものです












暑中お見舞い申しあげます