地の記憶
<御神籤 第三十六番>
玉 ち は う
か み の め ぐ み の
風 う け て
も え 出 で に け り
の べ の 若 草
*
「土地は記憶しているんですよ」
と
『ブラタモリ』の中で
タモリさんが言っているのを聞いた翌日の
昨日、
訪ねた先で
その地の高低差の大きさと
有名な寺院が谷底にあることに
驚きながら
「地の記憶」
というものに
思いを馳せていました
大地は本当の歴史を知っているんだろうな
と
かんじながら…
*
ちなみに
昨日は
ウィキペディアによれば
大友皇子が即したとする立場において
大友皇子が弘文天皇に即位した日
とのこと
秘史にまつわる本を読んで以来
大友皇子が生き延びていたような印象が強まる一方で…
(*相模や房総には そういう伝承が残っています)
房総の地は
なかなか意味深長です
また
本日
2015/01/10は
小寒の次候
「水泉動(しみず あたたかを ふくむ)」
の
初日
弔い
弔う、みたいな気持ちで
ぐんぐん部屋の片付けをしています
と
友人がメールに書いてきたのを読んで、
「あぁ、そうなのかもしれない」
と
心の中でつぶやきました
「弔い」なのかもしれない
と
今年一年を振り返ってみると
特に
秋頃からの日々の心持ちは
「弔い」
という言葉が
ふさわしいかもしれません
*
死者を
直接知らずとも
また
その名を知らずとも
そこにたしかに存在したであろう人たちの気配を
かんじることは
弔い
であり、
残された思いを遂げる必要はなく
その境遇に同情する必要はなく
ただ
そうだったのだと
知ることこそが
本当に死者を弔うことになる
と
思うのです
それは
正しく過去を知る
ことと同義です
またそれは
過去を終わらせる
ということでもあります
本当に大きな働きをした人たちは
名前を残さず
去って逝ったことでしょう
「真の大人物は己の痕跡を消していくもの」
と
語った方もいたようで…
今年初めて飾った
ヒカゲノカズラ
が、
一説には
“棒に蔓が巻きついた様”
や
“弓を持ち 屍の傍に矢を射立て 死者を害する鳥獣や邪霊を祓う「仕儀」”
を表しているという
「弔」
の文字に重なる、
2014年
の
終わり
です
超えていく
何年か前に
友人から話を聞いて
以来
ずっと
心のどこかに留まっていた場所がありました
大雪の初候が終わるころ
今年の冬至が
朔旦冬至と知って
なぜだか
その場所を訪ねたくなったのでした
11月の最終日の「秋の散歩」の
コースを決めるときに
その場所を
思い出していたことも
多少は影響したのかもしれません
私の中では
長州への旅の延長にありました
また
今秋から断続的に読み続けている
一連の秘史の本の内容に
関わるものでもありました
偏狭なナショナリズムの言説において
大陸や半島から来た人々を
侮蔑するような表現に出くわすことがありますが、
現生人類が
アフリカ大陸を起源とするならば
他の場所と同じく
日本列島の地もまた
断続的な移民によって
創られていったこことなります
この地にたどり着いたのが
早いか遅いか
の
違いでしかありません
もちろん
先住の人たちを
ニューカマーたちが蹂躙してよいはずもなく、
後から来た人たちは
先人が培ってきた礎を尊重し
そのうえに
それと混じり合いながら
あらたなクニをつくっていくのが
筋です
(これまで歴史は 残念なことに そうなっていないのですが…)
他人が育んだものを奪うことを良しとし
それによって生きながらえてきた人たちも
いるようですが、
渡り来た土地で
「斧斤を揮ひ、民生の樂土を現成する」ために
並々ならぬ努力をしてきた人たちも
数知れずいたことと思います
そして
後者の人たちの眼差しは
自らが去ってきたクニを再建することではなく
あらたなクニを創造することに
向けられていたのではないでしょうか
過去を
生きるための肥やしとし
常に
未来に向かって進んでいく…
それは
「旅する動物」
たる
ホモ・サピエンスの
本性
のように思えます
過去にしがみつくものたちは
こちらさに分断をつくり
コントロールしようとします
神と悪魔
といった概念もまた
そういうものの一つのカタ
と言えそうです
神という概念は
例えるならば
人間に空を気づかせるために
屋根に目を向けさせてきたようなもの
ではないでしょうか
でも
屋根はあくまで屋根でしかなく
屋根を見ているだけでは
空に気づくことはできません
今を生きる私たちは
空の空間が
頭上だけでなく
全方位に広がっていることを
知っているのです
そして
目には見えぬとも
全方位に光が満ちていて
全方位から光が注がれていることも
光と闇
は
人間にとっての
可視か不可視かの違いでしかないことも
天平の地平
山口へ行く
飛行機のなかで
機内誌を ぱらぱら と めくっていたら
一枚の写真に
目が釘付けになりました
その航空会社の
来年のカレンダーの12月の写真
右下に小さく
金銅唐花文碗/東京国立博物館蔵
と
記されています
持ち帰り自由のその雑誌を
宿へ運び
写真のページだけを破って
ファイルに収め
自宅まで
調べてみると
国宝
で
8世紀のもの
であることが
わかりました
8世紀といえば奈良時代
天平文化が栄えた頃です
私の
ごく限られた経験に基づいて言うなら、
天平時代のものは
初々しくて
伸びやかで
創作のよろこびや
いのちの勢い
ようなものが
感じられ
見ているだけで
楽しく 清々しい 気持ちになります
飛鳥時代の
大陸や半島の匂いが薄れ
この国の風土と溶け合った
あたらしい かたち
が
うまれている最中の
雰囲気が
そのまま
写し取られたかのようです
この碗が
どこで作られたのかはわかりませんが
(上記の理由から 日本国内だと推察するのですが…)
それが
日本であれ
唐であれ
違う文化が混じり合う
いぶきのような
自由な空気が
伝わってきます
異なるものが
出逢い
触発しあい
あらたなものをうみだす
天平の地平の精神を
受け継いでいけたら
と
思うのです
異場(コトバ)のクニ
明治維新や
維新の志士に
とりたてて興味がない私にとって、
長州は
これまで
用事で2度ほど訪れたことはあっても
そして
家人が「行きたい」と何度つぶやいても
旅先として選ぶ場所ではありませんでした
明治天皇をめぐる
すり替え説
に対するひっかかりが、
私の足を
長州から遠ざけていたことも確かだと思います
明治天皇がすり替わっていた
としても
それ自体は
私には
違和感も驚きも
生じさせないのですが、
私が当初接した説で言われていた
「暗殺」
という出来事が
なぜか
どうしても
ひっかかっていたのです
(「暗殺」がありえない というのではなく、
「暗殺」がそぐわない というような感じでしょうか)
数年前に
皇統についての本を読んだ時
その中の一文に触れて
孝明天皇も睦仁親王も
暗殺されなかったのだろう
と
思い至ることがあり、
当初の違和感は
幾分
薄らいだものの、
依然として
すっきりしないものが
横たわったままでした
それが
今秋になって、
そこに記されていることの裏は直接取れないものの
これまで私が見聞きしてきた
様々な出処の情報のピースや
私が漠然と抱いてきた“感じ”が
ぴたっ
ぴたっ
と
当てはまる
本に出逢って、
ようやく
長年わだかまっていたものが融け
「長州へ行ってみよう」
という
心持ちになったのでした
私を長州へと誘(いざな)った本には
その地は
大陸や半島との関係において
重要な役割を果たしてきたことが
記されています
鎌倉には
頼朝公の墓のすぐ近くに
大江広元公の墓を中央にして
島津氏の祖とされる忠久公の墓と並んで
毛利氏の祖とされる季光公の墓があります
異国との接点であるがゆえに
日本の征服や擾乱を企図する者たちが
接触し
上陸してくる
土地
国家分断の
発火点となりうる
土地
記録や伝承に残されることのない
さまざまな取り組みや働きや苦労が
あったであろうことは
想像に難くありません
大内義隆公が
理解を示し
手厚く保護したため
日本で最初にキリスト教が根付いたとされる
山口
フランシスコ・ザビエルの出生地である
スペインのナバラ州は
山口市の姉妹都市です
イエズス会の創設者 フランシスコ・ロヨラ
も
ザビエル
も
バスク人
海洋の民であるバスク人
は
水軍が活躍した
この地に
故郷に似た何かを
感じていたかもしれません
第266代の現ローマ教皇であるフランシスコは
イエズス会初の教皇とか
地政学では
海洋国家の重要性が
語られますが、
歴史において
海に関わる人やものごとは
かなり
大きな影響力を持ってきたように
観じられます
海
が
過去の膿を洗い流し
異なるものこと
を
つなぎ
あわせる
触媒となり
産みの場
産みのはたらき
と
なりますように
そらみつ大自在
旅の初日
日本最古とされる天満宮で
お祭りが行われていました
白装束に
紅梅の判が
なんとも粋で
西日本屈指の荒祭りとして有名という
この御神幸祭(=裸坊祭)の
御発輦[ごはつれん]と御帰還は、
人混みを避けたい
のと
隣の市に取った宿に帰るのに時間がかかるため
見ませんでしたが、
周辺から神社へ向かう人たちの
晴れやかで
高揚した雰囲気から
この祭りと社が
とても大切にされてきたことが
感じられました
翌日は
宿を取った市の
天満宮のお祭
両社を同じ神主さんが管理しているために
八坂神社と連動したお祭りとのことでしたが、
それは
その日に参加した歴史散歩の案内人さんがおっしゃった
「スサノオと道真公
ともに
荒ぶる神を祀った者(の意図)
と
それによって護られている地」
を
象徴しているようにも思えました
*
通説とは異なる
歴史の本を読みながら、
スサノオ
も
菅原道真公
も
もしかしたら
一般に伝えられているような存在ではないのでは
と
思っている
私には、
この地の果たしてきた
そして果たしているであろう
役割
というものに
改めて
思いを馳せる機会ともなりました
すると
「兄弟 わっしょい」
という
御神幸祭での掛け声が
深く響いてもくるのでした
穴門 ひらく
<一つのメルヘン>
中原中也
秋の夜は、はるかの彼方に、
小石ばかりの、河原があって、
それに陽は、さらさらと
さらさらと射しているのでありました。
陽といっても、まるで珪石か何かのようで、
非常な個体の粉末のようで、
さればこそ、さらさらと
かすかな音を立ててもいるのでした。
さて小石の上に、今しも一つの蝶がとまり、
淡い、それでいてくっきりとした
影を落としているのでした。
やがてその蝶がみえなくなると、いつのまにか、
今迄流れてもいなかった川床に、水は
さらさらと、さらさらと流れているのでありました……
*
旅先から送った
「一つのメルヘン」が書かれたハガキ
受け取った友から届いたメールを読んで
彼女が言う通り
この詩が
今回の旅がどんなものだったのかを
うまく
あらわしているように
観じました
この詩を
好きだったことや
これが
中原中也のものであることを、
「歩みのリズム」
という
企画展の言葉に惹かれて訪ねた
彼の記念館で
ずいぶんと久しぶりに
思い出したのでした
家人が取った宿は
中也が結婚式を挙げた場所
彼が最期を迎えたのが
鎌倉であったことを
ここで初めて知りました
中 也
いい ことば です
流れのある町
川が流れる町が好きです
水が流れている場所は
気が
軽やかに感じられ、
水と風の動きに
いのちが
呼応し
躍動するかのようです
緑と水の道すじは
町の
温度調節にも
一役買うことができますし、
流れの音には
人の心身を
調える役割も期待できます
また
水辺があることで
生態系が豊かになり、
さまざまな生き物が紡ぐ
可聴域を超えた音が
私たちの存在を
優しく包んでくれそうです
流れのある町は
豊かだなぁ
と
いつも思う
私なのでした
<水平のラインがベースの中に
垂直の線が美しい
日本の伝統的な家屋
板塀の やや斜めになった木目が
それに
リズムを加えています>
<かつては もっと水量があって
川船が通っていたそうです
だから
昔ながらの家の
石橋は
少し高くなっているのだとか>