9次元からきた男
日本科学未来館が
開館15年目の春となる
今年の4月20日に
常設展示の約半分を刷新する
大規模なリニューアルを行ないます
これに際し
ドームシアターの上映作品も一新されるのですが
昨日
その新作の
レクチャー付きプレミア先行試写会
が
ありました
物理学の究極の目標である「万物の理論(Theory of Everything)」をテーマにした
『9次元からきた男』
は
世界初の3Dドーム映像作品
監督の清水崇さん
と
ビジュアル・ディレクターの山本信一さん
は
まったく初めての試みに
一から方法論を組み立て
“グローブをして絵を描く”ような感じだったと
おっしゃいます
制作チームが
持てる力を出し切って作り上げた映像は
なんの知識がなくとも
美しく
また
楽しめるのですが、
監修者である大栗博司さんの
最先端の物理学の知識と映像化に対するこだわり
そして
それに応えた制作者たちのこだわりが
30分というコンパクトな尺に
ぎゅっと集約して詰め込まれているので
知識が深まれば
映像の観え方や楽しみ方もまた深まっていく
という
一粒で何度でも美味しいものに仕上がっています
9次元をリアルにイメージor実感できるかな
という期待は
満たされませんでしたが
宇宙論や宇宙物理学の本を読み進めつつ
どんなあらたな気づきがあるのかを楽しみに
少なくとも
もう1回は
ゆりかもめに乗って
科学未来館のドームシアターへ行こうと思っています
これらの数式の意味を
実感を伴って理解できるようになりたいです
視覚化された“沸き立つ無”
映像では
躍動感をもって描かれています
上映からレクチャー&トークまでの待ち時間のあいだ
この鮮やかな水色に一瞬ひるみつつ
「地球まん」をいただきました
中央の焼き印は
地球の大陸をデザインしたもののようです
*
【追記】
(2016/01/22)
映画を監修された大栗博司さんが
ブログで試写会のことを書かれています。
せんをひく
井上有一さんの展覧会と
知人のダンススタジオの発表会
両者の刺激が相まって
無性に
大きな筆で大きな文字がかきたくなり
ネットで
適当な言葉を打ち込み
ようやく見つけた
同年代の書家の方がやっている書の会へ
昨日
参加してきました
*
筆で文字をかくことが
こんなに
楽しく
おもしろく
自由だったとは!
たぶん
生まれて初めての
体験です
これは
ナビゲートしてくださる
講師の人格および力量によるところが大きい
と思われます
その日の私が選んだ
一文字は
台風の只中だったからというわけでもないのですが
(無意識に影響を受けていた可能性はあります)
「風」
筆によって
紙によって
気持ちによって
動きによって
イメージによって
さまざまな風があらわれます
書は
線をかくものだから
というようなことを
言われたような…
「書 は 線」
ということが
なんだかとても新鮮で
でも同時に
そうだと知っていたような気もします
*
空白に
線がうみだすもの
虚空に
せんをひくこと
いろいろな
せん
が
つくる
風
を
風景
を
かんじ
たのしんでいきたい
と思っている
今年の夏です
【補 記】
帰宅してカレンダーを見て
昨日が
文月の朔だったことを知りました
あたらしいことを始めるには
ぴったりな日
だったようです
あおい蓮
旅の最終日
滞在中に何度か参道の標識を目にした
宿の近くの寺院
を
訪ねました
室内の装飾で
私の目を引いたが
蓮の襖絵
後で調べてみると
その日
お茶会に使われていて
入ることが叶わなかった部屋は
一面の蓮が楽しめるようです
もともと絵心はあったとはいえ
とても
「還暦を前に絵を描き出して二年足らず」
の方の絵とは
思えません
そのお寺の名前にも使われている
青い蓮
仏教では
「浄土に往生する」
という意味があるようです
また
慈悲の心のあらわれ
とも
あるサイトには
「古代エジプトには 今は無くなってしまった青い蓮が咲いていて
その青い蓮が再び咲くとき
地球上に神々が戻ってくる」
という物語が
伝説として紹介されていました
『風の谷のナウシカ』
では
「その者
蒼き衣を纏いて
金色の野に降り立つべし。
失われし大地との絆を結び
ついに人々を清浄の地に導かん。」
という
古き言い伝え
が出てきます
海 は あお
空 は あお
葉や草木 は あお
地球 は あお
「あお」
という色
に
ひとは
生命力 や 希望
を
みるのでしょうか
一般的に
蓮は
泥の中に根を張りながら 泥にまみれることなく美しい花を咲かせる
その姿
が
賞賛されます
それは
泥を穢れたものとする
意識が前提となっています
「我らは大地そのものである。」
という
鈴木大拙氏の認識を前提とするなら、
蓮が象徴するものは
無意識/無分別の智 の 大地に根ざし(=無意識/無分別 の チに根ざし)
無意識/無分別の智 に 支えられた(=無意識/無分別 の チに支えられた)
意識/分別の
美しい花を咲かせる
こと
となるでしょうか
葦辺より満ち来る潮
録画していた再放送のドラマを見ていた時
待ち合わせ場所の美術館に展示されていた
一枚の絵が
印象に残りました
エンディングのテロップで確認したその美術館へ
昨日訪ねたところ、
行なわれていたのは
「東山魁夷と日本の四季」の展覧会
常設展示されているかもしれないという
ささやかな期待は外れ、
奥村土牛氏の「鳴門」を観ることは叶いませんでした
その代わり
思いがけない
素晴らしい絵との出逢いがありました
*
冒頭の写真はその絵を用いた葉書なのですが、
「日本画は、
鉱物を原料とする岩絵の具や、
和紙といった自然の中にある素材が用いられてるため、
印刷物ではなかなか本来の色彩や質感など、
その魅力が伝わりません。」
と
学芸員の方が語っているように、
私が観て体験した絵とは“別のもの”
に
なってしまっています
箔や砂子で描かれた 岩に砕ける波しぶきが
計算された照明によって
きらめき躍動していた 色あいや生命感が
印刷物では
まったく伝わってきません
ネットで写真をいろいろ探してみても
結果は同じでした
この場所に置かれる絵として描かれた
「満ち来る潮」
東山氏は照明にも指示を出し、
公開の前日には
採光の具合でどうしても手を加える必要があると
6〜7時間近く補筆されたそうです
斜め横
やや斜め横
真正面
また
立っているか座っているかによっても
絵はまったく異なる表情をみせます
本当に目の前に潮が流れているかのようで、
絵が大きいということもあるのでしょうが
目の前を人が行き交っても
目の前に人が佇んでも
海を眺めているときのように
それらは景色の一部となり
まったく邪魔にならないのです
そして何よりも驚いたのは
いえ
私をそこに引き止め続けたのは
絵の場が
ほとばしり溢れ
わきたち
振動している
ことでした
それは
本当の海を感じているようなリアルな臨場感
というのではなく、
もっと根源的なところから噴き出してくる 何か
ちょうど今読んでいる本『ミクロコスモス ー夜の知恵ー』で言及される
「物質と精神、内部と外界、末端の神経組織と大脳の組織、
あるいは自然と人間の文化などの
対立を超越したところにあらわれてくる」
レヴィ=ストロースが言うところの「構造」
や、
「時間による秩序づけを越え、
空間的構造としてとらえることもできないほどの
高次元的ななりたちをしているために、
およそ語り尽くすことは難儀なもの」
や、
「空間以前、時間以前、存在以前、秩序以前、思考以前」
の
「いっさいの『機』が動き出す直前の、力みなぎる未発の場所」
である
度会神道における「機前」
や、
神仏たちの背後に広がる
「後戸の空間」
といったものを
思い起こさせます
私のコトバで言うなら
「ひとつ」の場
や
「在一場」
となるでしょうか
まるで
対称性が破れて宇宙が始まる
その前の
対称性の“うみの場”の振動が
描かれた海を介してそのまま伝わっているかのようでした
そしてその振動は
絵がそのように描かれていることによって
いまここに現れ
伝えられているのだと気付き、
その時初めて
Technology/Technique(技術)とArt(芸術)は 同じ語源である
ということが
実感を持って理解できました
「Nature(自然)」と相補する「Techne(技術と芸術の語源)」
は
わたしたちの源への回路
となりうるようです
「満ち来る潮」
というタイトルが
万葉集の
「葦辺より 満ち来る潮の いや増しに 思へか君が 忘れかねつる」
から採られたと知り、
そこに
その日読んだばかりのページに出てきた
「葦」の文字を見つけて
そのタイムリーさに
私はちょっと
笑ってしまいました
「機前」という言葉をつくった度会家行氏は、
「天地開闢の後ニ、虚空の中ニ一物あり。形葦牙[あしかび]の如」きものとし
ここで言う
葦は あらゆる母音の最初の音である「ア」であり
牙は その「ア」音とともに盛り上がってくる強度の先端部である、
という分析が
その本には記されています
私も同様の認識を持っているものの
音の特性を観じるには
「ア」より「A」の文字の方がよいと思うゆえに
ローマ字表記によって
母音があらわしていることを考えていくと、
「I(イ)」は
「A(ア)」があらわれいづる勢いやベクトル
「U(ウ)」は
「I(イ)」を経てモノカタが浮き うまれてくるはたらき
と
捉えることができ、
潮
を
「うしお」
と
読みたい私には
この絵は
まさに
存在の世界を葦の芽のように立ち上がらせる「A(ア)」の場
である
「葦辺」
から
満ち来る「U(ウ)」としての潮
を
あらわしているように感じられるのです
この理解は
私がこの絵に実感/実観したことと
ぴったり
寄り添います
*
また
「満ち来る潮」
は
私に
千住博さんの「滝」
を
思い起こさせました
私の実感/実観において
千住さんも
後戸との回路としての絵を描かれている方です
調べてみると
千住さんは
東山魁夷氏と 東山氏が描いた「青の世界」に強い憧憬を抱いている
という記述がありました
「満ち来る潮」は 特定の海を描いたものではありませんし
千住さんは 風景を写実しているわけではない とおっしゃっいますが、
ここで私は
『人間の建設』の中で小林秀雄さんが話題にされた
地主悌助さんという画家が「写実しか認めない」と言ったことを
思い出すのでした
具象に
いまだあらわれない場からのほとばしりを観じ、
いまだあらわれない場からのほとばしりを
具象にあらわす…
私たちは
あしべよりみちくるうしお
と
ともに
いきることができるようです
【追記】
(2015/01/30)
一昨日 帰宅して
ネットで東山魁夷さんについて調べていたら
東山さんが 建築家の吉村順三さんと同窓であり
東山さんのご自宅を 吉村さんが設計されたことを知りました
吉村さんは 私が好きな建築家の一人です
また
「フィラデルフィア松風荘」も検索にひっかかり、
吉村さんの設計で
東山さんが襖絵を描かれ、
その襖絵が破壊されたため
千住さんが新たな襖絵を描かれた
ことを知りました
思いがけず
好きな方たちのつながりが見えて
うれしくなった私です
弔い
弔う、みたいな気持ちで
ぐんぐん部屋の片付けをしています
と
友人がメールに書いてきたのを読んで、
「あぁ、そうなのかもしれない」
と
心の中でつぶやきました
「弔い」なのかもしれない
と
今年一年を振り返ってみると
特に
秋頃からの日々の心持ちは
「弔い」
という言葉が
ふさわしいかもしれません
*
死者を
直接知らずとも
また
その名を知らずとも
そこにたしかに存在したであろう人たちの気配を
かんじることは
弔い
であり、
残された思いを遂げる必要はなく
その境遇に同情する必要はなく
ただ
そうだったのだと
知ることこそが
本当に死者を弔うことになる
と
思うのです
それは
正しく過去を知る
ことと同義です
またそれは
過去を終わらせる
ということでもあります
本当に大きな働きをした人たちは
名前を残さず
去って逝ったことでしょう
「真の大人物は己の痕跡を消していくもの」
と
語った方もいたようで…
今年初めて飾った
ヒカゲノカズラ
が、
一説には
“棒に蔓が巻きついた様”
や
“弓を持ち 屍の傍に矢を射立て 死者を害する鳥獣や邪霊を祓う「仕儀」”
を表しているという
「弔」
の文字に重なる、
2014年
の
終わり
です
fーいのちー黄金の夢
<こちらのサイトからお借りしました>
ヴァイオリンをひらく
f
川の流れに
あらわれる音
カラダをひらく
f
地から
天から
地と
天と
しなやかに
強靭に
はずみつつ
動きつつ
tensegrity
ひとつにすべる
ひとつのかたち
ひとつから
うまれた
ふたつの渦
むすひめ
ひらいて
f
すすみゆくながれ
一滴のしずくは
地を
川を
海を
空を
旅して
sogni d'oro
黄金の夢に
*
佐々木昭一郎さんが
約20年ぶりに制作した映画の公開に合わせて
佐々木さんの作品が
五夜に渡って放映されました
私が彼を知り
今でももっとも印象深く心に残っている
“川・三部作”の一つ
「川の流れはバイオリンの音」
久しぶりに観て、
変わらないものと
変わったものを
かんじつつ
いまだからこその
新たな発見もありました
<こちらのサイトからお借りしました>
An Oasis in the Badlands
<写真はこちらのサイトからお借りしました>
昨日
大学時代の後輩と
卒業以来の再会を果たしたとき
初めて目にした
エドワード・カーティス氏の写真です
なんでも
写真を学びに渡米した
彼の父親の叔父が
帰国の際に
持ち帰ってきたものらしく、
父親の実家にあった
この写真を
彼は
幼い頃からとても気に入っていたと言います
やがて
自分のもとにやってきた
その写真の詳細について
彼が知ったのは
ほんの数年前のこと
『インディアンの言葉』
という本を
何気なく読んでいたとき
その中に
見覚えのある写真を見つけたのだそうです
冒頭の写真は
ウェブ上からお借りしたものですが、
彼が持っている写真は
エドワード・カーティス氏が得意とした「オロトーン技法」
によるもので
その画像の繊細さゆえに
しっかりとした額に入れられていました
(冒頭の写真もオロトーンです)
その写真を直接見たいと言う
知り合いとの約束を
私と会う日に合わせてくれたおかげで
思いがけず
私は
この写真を目にし
エドワード・カーティスという写真家を知る
好機に恵まれたのです
話の途中で
彼の脇にあった大きな紙袋から
この写真が引き出され
テーブルに置かれたとき
なぜか
こころがふるえる
ような
感覚を覚えました
そして
数年前に佇んだ
釧路湿原にあるアイヌの聖地だったとされる場所を
思い出していました
*
昨日は
旧暦葉月の朔である八朔
早稲の穂が実る頃で
農民の間で初穂などを恩人に贈る風習があったそうで
「田の実(たのみ)の節句」
とも呼ばれるのだとか
<An Oasis in the Badlands>
このタイトルと
写真のたたずまい
が
私には
いまというときに
重なって
かんじられます
(この写真が撮られた後のネイティブの人たちがたどった歴史と重なる
ということではありません)
<彼が所有している写真
こちらのサイトからお借りしました>
からだにまかせる からだをまかせる
やれやれ
やれやれ
どっこらしょ
あ〜〜〜〜〜
らくちん
らくちん
力は要らなかったのだなにゃぁ〜
*
こちらは
OYA TOKURYOさんの写真
です
ひとつひとつ確実に
よいしょ
よいしょ
いのちは ゆっくり すすみます
*
昨日まで
玄関に飾っていた
YAMASHITA MICHITAKAさんの写真
を
使った
ポストカード
です
とりのひと
先日
喫茶店で出されたコーヒーカップの絵柄が心に留まり
その絵から思いつくままに
ウェブで検索していたら
「サモトラケのニケ」の像に行き当たりました
ギリシャのサモトラケ島で発掘された
勝利の女神とされるニーケーの像です
[上下のニケ像の写真は あるサイトからお借りしました]
一般的にはアテーナーの随神とされているようですが
アテーナーの化身とされる場合もあるようで、
わたしには
後者の方が なんだか しっくりきます
このところ
「鳥」や「羽」
が
気や眼にとまることが多く、
冒頭のコーヒーカップがわたしのアンテナに引っかかったのは
そこに鳥が描かれていたからでした
鳥とともに描かれていた
香炉か水差し や 樹の枝 を 持った
女神/女性
について調べていて、
勝利の花輪、オリーブや棕櫚の枝を持つものがあるとされる
ニーケーを知ったのです
水瓶をもつ女神
で
みていくと、
アムリタなど
命の源の水が入った水瓶
という
ある種 普遍的な イメージに出逢います
下の3枚のピンぼけ写真は
今回のきっかけとなったコーヒカップ