宇宙の乳[ち]。原初のエロス
こんな姿をみるのは初めてでした。
『人間にとっての 音↔︎ことば↔︎文化』
というタイトルに惹かれて買った
湯浅譲二さんと川田順造さんの対談本。
読んでいるうちに湯浅さんの楽曲を聴きたくなって
検索していたところ 目に留まったのが、
笙だけで演奏される
「原風景(To the Genesis)」。
笙の音といえば 雅楽での
ブワァぁぁぁぁ…
と不均一にあたり一面へ広がっていく
湯煙のようなイメージしか持っていませんでしたし、
その奏者の佇まいに
目を向けたこともありませんでした。
というタイトルに惹かれて買った
湯浅譲二さんと川田順造さんの対談本。
読んでいるうちに湯浅さんの楽曲を聴きたくなって
検索していたところ 目に留まったのが、
笙だけで演奏される
「原風景(To the Genesis)」。
笙の音といえば 雅楽での
ブワァぁぁぁぁ…
と不均一にあたり一面へ広がっていく
湯煙のようなイメージしか持っていませんでしたし、
その奏者の佇まいに
目を向けたこともありませんでした。
真っ黒な背景に
黒衣に身を包んだ奏者、真鍋尚之さんの
肌の色と
笙の飴色が
浮かんでいます。
両の手のひらは
ほんのり開いた花弁のように笙を包み、
その姿は
まるで遥かな宇宙の深淵から
いのちの乳を吸っているかのようです。
音が出ているということは
吹いている、つまり息を吐いているわけですが、【追記参照】
それなのに ゴクゴクと
貪欲に且つ慎み深く
笙という器に流れくるものを
飲み込み 飲み干しているような、
あるいは
天高きところからの滴りを
漏らさず両の手のひらで受け止めて
自らの渇きを癒し いのちの糧としているような。
奏でられる音も、
宇宙にはりめぐらされたものを口元に手繰り寄せ、
真鍋さんという体や場を介して
新たなものが立ちのぼり
霧散しつつ 宇宙へ還っていくような。
「祈り」という概念に収まりきらない
大いなるものとのやりとり。
ほんのり開いた花弁のように笙を包み、
その姿は
まるで遥かな宇宙の深淵から
いのちの乳を吸っているかのようです。
音が出ているということは
吹いている、つまり息を吐いているわけですが、【追記参照】
それなのに ゴクゴクと
貪欲に且つ慎み深く
笙という器に流れくるものを
飲み込み 飲み干しているような、
あるいは
天高きところからの滴りを
漏らさず両の手のひらで受け止めて
自らの渇きを癒し いのちの糧としているような。
奏でられる音も、
宇宙にはりめぐらされたものを口元に手繰り寄せ、
真鍋さんという体や場を介して
新たなものが立ちのぼり
霧散しつつ 宇宙へ還っていくような。
「祈り」という概念に収まりきらない
大いなるものとのやりとり。
管という構造と それを振動させる息ゆえに
とても肉感的であり、
演奏の場のすべてが それぞれ
ゆらいでいます。
やさしく包んでいるようにみえる両手は
宇宙の乳房をまさぐっていて、
漆黒のただ中で身悶え、
なんともいえないエロティシズムに満ちているのです。
とても肉感的であり、
演奏の場のすべてが それぞれ
ゆらいでいます。
やさしく包んでいるようにみえる両手は
宇宙の乳房をまさぐっていて、
漆黒のただ中で身悶え、
なんともいえないエロティシズムに満ちているのです。
エロス[eros]の語源は、“to love”の意。
どこかで、
「生命(力)はエロティックである」
というような記述を目にした記憶があるのですが、
まさにその意味において最大限に
原初的なエロスが充満し
行き来していたのでした。
川の流れはバイオリンの音
アムール川
ライン川
セーヌ
ミシシッピー
アマゾン
ドナウ
ドニエプル
…
行ってくるよ
川を見に
アルプスを下った。
小さな川に沿って歩いた。
大きな川に出た。
ポー川
フューメ・ポー
ポー川から妹への葉書
ピアノを調律しながら バイオリンの故郷に近づいた。
クレモーナ
イタリアの北の町
壊れたバイオリンは 大切に持ってるよ。
川の日記をつけているよ。
元気で
A子
<「川の流れはバイオリンの音」の冒頭より>
スケッチ/SKETCH
最終日前日の昨日
ベルナール・ビュフェ美術館での
「ロベール・クートラス
僕は小さな黄金の手を探す」展
へ
行くことができました
これまでクートラス展が行われた会場には
縁のあるお店が2つも含まれており、
クートラスの絵がアンテナに引っかかるかもしれないと
今回の展覧会について知らせた二人の友人は
すでに昨年の松濤美術館での個展に行っていたりするのですが、
私が
クートラスの作品の実物を観るのは
今回が初めてです
気に入っていた絵も展示されていましたし
カルトやテラコッタなど
多彩な作品に触れることができた中で
私がもっとも印象に残ったのは
まったくの想定外だった
スケッチ類でした
たぶんクートラスの本質ではないかな
と思える
楽しさや悦びや軽やかさやユーモア
あたたかさや慈しみや愛情といったようなものが
スケッチの
シンプルな黒い線から溢れ出しているように感じられました
冒頭の写真は
ショップで買い求めた
クートラスのスケッチを使ったマスキングテープを
美濃和紙のハガキに貼り付けたもの
上は
同じくショップで買った
一筆箋の表紙と
下は
その中身
いつか
スケッチだけを集めた展示を
見てみたいものです
@SKETCH< Italian schizzo “sketch, drawing,”
which is commonly said to be from Latin schedius,
from or related to Greek skhedios “temporary, extemporaneous, done or made off-hand,”
related to skhema “form, shape, appearance”
超越 あるいは 相転移
Shigeo Anzaiさんが撮影された
ジュリアーノ・ヴァンジ氏の
「雌オオカミ」
今日立ち寄った本屋さんで
一目見て
釘付けになりました
調べてみると
ローマの建国神話を現したものらしく、
この写真ではわかりませんが
脚の間に
双子の赤ん坊がいます
でも
私には
過去を礎にして未来を見据え
過去の延長線とは違う領域へ
今まさに
跳躍
あるいは
走り出そうとしている姿に見えるのでした
世界を観じる
先日ある画家の名前が目にとまり
ウェブを検索していたら
同時期にその方と同じ美術館で展覧会が開かれていた
別の画家の絵に
見入ってしまいました
『深い眠り』
個人的な表現として
写実的な手法は
技術のあるなし以前に
少なくとも今のところ惹かれないのですが、
見る立場としては
今年生誕300年を迎え
様々な形で取り上げられている伊藤若冲など
大好きな写実的な絵画はあります
早速
その絵と同じタイトルの
磯江毅さんの画集
『DEEP SLUMBER 深い眠り』
を
注文
届いた本の帯をみて
去年の今頃
磯江さんの展覧会が開かれていたことを知りました
*
その画集の冒頭に載っている
磯江さんの文章
「真の写実を求めて」
より
物を見るということは
意外にも深い意味があると思っている。
物がそのものであるかのように描くということと、
物を自分に見えたように描くということとは違う。
前者のほうは
作家の個人的感情を出来るだけ交えず、
その現実(事実)を構成している無数の要因の中から
最も重要な美的エレメントを選択し、
抽出することだと
私は考える。
その抽出力あっての描写力だと思う。
そんな硬質な仕事に対し、
後者のほうは
個性的解釈という一見芸術らしさがあるようにみえるが、
それが作家の思い違いや、
マニアックな思い込みに陥りやすい危険性を孕んでいる。
*
すべての人に共通する「完全な客観」というものは
存在しないことがわかり、
物理学の発展により
「見る」
ということの意味が変わりつつある現在、
磯江さんの言う「硬質な仕事」の
本質的なレベルにおいては
写実も抽象も
違いはないように
私には思えます
見ているようで見ていない
聞いているようで聞いていない
感じているようで感じていない
世界を
より精妙に感受し観察し
その中から
何を選び取って
あらわすのか…
絵画に限らず
さまざまなことにおいて
大切なありようだと思います