物質 と 意識
近くを通るたびに 気になっていたお店がありました
小さなビルの階段の入口には
気持ち良さそうな布のアップを ピントを甘くして撮った写真
の看板が置かれています
昨日 その前を通った時、
軽い運動がてら
3階までまっすぐ伸びる 傾斜のきつい階段を 登ってみようか、
という気持ちになったのでした
看板に記されていたunderwearという文字と 例の写真から
オーガニックコットンやリネン素材の
気持ちのいい下着が置いてあるのだろうな と
想像しながらお店に入った私の眼に飛び込んできたのは、
カラフルなブリーフやトランクス
なんとそこは 男性の下着専門のお店でした
私の心をとらえた看板の写真は
下着の生地のアップだったようです…
ピラティスやヨガをする女性で
ここのブリーフを愛用している方もいるとのこと
「うーん、しかし…」
と思いながら
店内に目を泳がしていると
片隅に シャツやジャケットやアンティークの小物などのコーナーがあり
そこに置いてあるジーンズに眼がとまりました
徳島で藍染めした糸をつかって
岡山県の児島でつくられた
こだわりの品
儲けを考えずに
「本当につくりたい いいもの」をつくろう と、意気投合した人たちと
一緒につくったものだそうです
(だから 在庫がなくなったら 終わりです とのこと)
そう伺う前から
なんとなく手にしたくなる雰囲気を持っていて
確かに
大切につくられたものであることが
感じられます
履いてみても
とても心地がよく
意識まで凛としてきます
ふと
ここに来る前に会っていた人から聞いた
ある建築会社の方たちの仕事についての話を
思い出しました
その方たちの現場は
いつも和やかな雰囲気と笑い声が絶えなくて、
別荘を建ててもらった ある人は
近所の方から
その家からいつも笑い声が聞こえるよう
と言われるのだそうです
ひとの意識と大地は 相互作用を及ぼし合う
という仮説を
自然栽培の農家の方の体験から
立てることができますが、
それは
意識と物質の関係
として 考えることができるのかもしれません
いくら素材が良くても
料理する人の意識によって
すべてが台無しになることは
実体験済みです
言葉を換えるならば
ものごとに
たずさわるひとの
いしきによって
できあがるものは
その精神性も含めて
いくらでも
すばらしくなる
可能性がある
ということ
なのだと思います
流れとして
一つ前の記事に取り上げた「天青石」を
思い出したのは
広隆寺の半跏思惟像(宝冠弥勒)を
観たことがきっかけでした
思い出したのは
広隆寺の半跏思惟像(宝冠弥勒)を
観たことがきっかけでした
霊宝殿の中心の祭壇に置かれたその像は
その時の私の眼には
まるで
すきとおった流れの中に
流れそのものとして
存在しているように見えました
その時の私の眼には
まるで
すきとおった流れの中に
流れそのものとして
存在しているように見えました
像に向かって手を合わせる人たちが投げかける願い事にも
周りのあらゆるものにも
煩わされることなく
ありつづける流れ
のように見えたのでした
自然
理
とでも言うべきもののような…
この像の由来の正確なところは分かっていないようですが
広隆寺の建造に関わった
聖徳太子も秦河勝も
守り伝えるべきものを知っていた
のではないかと
思います
余談ながら
たおやかな雰囲気をたたえる全体のなかで
弥勒菩薩が座る台座の布が
あまりにも平坦に表現されていることに
違和感を覚えました
しかし
しばらく観ているうちに
それは
物質が生命になっていく あらわれ
のように思え
宇宙そのものの歴史を映しているようにも
観えたのでした
周りのあらゆるものにも
煩わされることなく
ありつづける流れ
のように見えたのでした
自然
理
とでも言うべきもののような…
この像の由来の正確なところは分かっていないようですが
広隆寺の建造に関わった
聖徳太子も秦河勝も
守り伝えるべきものを知っていた
のではないかと
思います
余談ながら
たおやかな雰囲気をたたえる全体のなかで
弥勒菩薩が座る台座の布が
あまりにも平坦に表現されていることに
違和感を覚えました
しかし
しばらく観ているうちに
それは
物質が生命になっていく あらわれ
のように思え
宇宙そのものの歴史を映しているようにも
観えたのでした
みちのとも
そして こちらが
届いた完成品
仕上げにクルミの油を塗っているので
木肌の色が
ラフの時より濃くなっています
ロゴマーク HP 名刺 そして トモノイタ…
関わってくださった方たちの エネルギーを無駄にしないためにも
自分のみちを しっかり すすんでいこうと思います
トモノイタ
先日 注文していたトモノイタが 届きました
新たな出発に際し
自分を鼓舞する意味も込めて
「水」と「空」と「陸」
それぞれ
流れを見つけて進んでいく
イメージでお願いしたものです
ラフの段階に送ってきてくださった画像が
とても気に入っているので
まずは 完成品の写真をアップする前に
作り手の方の承諾を得た
ラフ段階の写真を載せておきます
あいそめ
昨日 久しぶりに訪れたパン屋さんに
藍染めで 一年の月の満ち欠けを描いた 手拭が
飾ってありました
月の満ち欠けを記したカレンダーは
使っていますが
こうやって一年を俯瞰してみると
新月のラインが
ゆるやかな上昇曲線を描いていて
それが何とも言えず
美しく
その 太陽暦ならではの文様に
しばし
見入っていました
なんでも
これを創っている方が
そのパン屋のふすまを使っているとのこと
いろいろ試してみたけれど
そのパン屋のふすまを使ったときの発色が
とてもよいのだそうです
(なんとも舌(?)の肥えた発酵菌たちです。笑)
そして今日
ちょうど今月一杯行われている その作り手さんの展示会へ
行ってきました
一日の 空の青を表現した
24枚の 藍染めの和紙
の
インスタレーション
微風に舞い うつりゆく
あいいろ
を
飽きることなく
眺めていました
場を支える
ここ数年は かつて毎日のように聴いていた音楽をほとんど聴かなくなり
大勢の人が集まる場所も得意ではないのですが
なぜか このフェスティバルの二日目 私は幕張の会場にいました
(「脱原発」は
“地球を破壊することのない社会”を志向する私のベクトルと 重なりますから
このフェスティバルのメッセージに 違和感はありませんでした
ただ
人が集まることで生じる 集合的な無意識と
それに飲み込まれる人々の中にいることを
好まない というだけなのです)
このイベントでは
「場を支える」ことの大切さと重要性を
改めて 実感することができました
私にとってそれは
イベント全体を通して というよりも
私が観た3つのセッションの場において
強く感じたことでした
それはまた
「音楽の学校」というテレビ番組で、
山下洋輔さんがその場を支えることによって
参加していた人たちが 自由に自らを表現していた
あの 歓びに満ちた開放感 を
思い起こさせるものでした
坂本龍一さんが
忌野清志郎さんが
細野晴臣さんが
それぞれのセッションにおいて
観客をも含めた「場」を支えていた
ように
私には感じられたのです
どれだけ熱い演奏をしていても
飲み込まれずに
どこか醒めて 全体を俯瞰している
そんなまなざし ありかた を
見せていただいた日でした