流れとして
一つ前の記事に取り上げた「天青石」を
思い出したのは
広隆寺の半跏思惟像(宝冠弥勒)を
観たことがきっかけでした
思い出したのは
広隆寺の半跏思惟像(宝冠弥勒)を
観たことがきっかけでした
霊宝殿の中心の祭壇に置かれたその像は
その時の私の眼には
まるで
すきとおった流れの中に
流れそのものとして
存在しているように見えました
その時の私の眼には
まるで
すきとおった流れの中に
流れそのものとして
存在しているように見えました
像に向かって手を合わせる人たちが投げかける願い事にも
周りのあらゆるものにも
煩わされることなく
ありつづける流れ
のように見えたのでした
自然
理
とでも言うべきもののような…
この像の由来の正確なところは分かっていないようですが
広隆寺の建造に関わった
聖徳太子も秦河勝も
守り伝えるべきものを知っていた
のではないかと
思います
余談ながら
たおやかな雰囲気をたたえる全体のなかで
弥勒菩薩が座る台座の布が
あまりにも平坦に表現されていることに
違和感を覚えました
しかし
しばらく観ているうちに
それは
物質が生命になっていく あらわれ
のように思え
宇宙そのものの歴史を映しているようにも
観えたのでした
周りのあらゆるものにも
煩わされることなく
ありつづける流れ
のように見えたのでした
自然
理
とでも言うべきもののような…
この像の由来の正確なところは分かっていないようですが
広隆寺の建造に関わった
聖徳太子も秦河勝も
守り伝えるべきものを知っていた
のではないかと
思います
余談ながら
たおやかな雰囲気をたたえる全体のなかで
弥勒菩薩が座る台座の布が
あまりにも平坦に表現されていることに
違和感を覚えました
しかし
しばらく観ているうちに
それは
物質が生命になっていく あらわれ
のように思え
宇宙そのものの歴史を映しているようにも
観えたのでした