おりおりに 出逢った      「すきなもの」を      縦横無尽に ご紹介
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とき














有機という言葉を

「機(とき)あるべし」と読む



「すべての命は 機(とき)無くしては ありえない」



日本の有機は

そんな意味を込めて

スタートしたと言います









届いた醤油のラベルに

記されていた

その言葉




食の安全性

ひいては

食の生命力

に関心を持って

四半世紀以上が経ちますが、

そのきっかけとなった有機農業の「有機」に

そんな意味が込められていたとは

今日まで

知りませんでした




確かに

「とき」

というものはある



実感します




その「とき」は

時空が相対的であるように

一つ一つの命

そして

一つ一つのモノ・コト

によって

異なるもの




それぞれの

「とき」



大切にし

それに応じ生かすことのできる

人でありたいですし

そんな社会


していきたいものです




まずは自分の「とき」から

ですね







シンイ













本日届いた

この言葉




別の意味にも取れまして…




果たして

そのココロは?




さくらさく














4年に一度の贈り物のような閏日が明けた

弥生のついたち




冬の寒さの名残はあるものの、

桃の節句を過ぎれば

春本番の暖かさになる

という予報に影響されているのでしょうか、

もうすぐ春本番

という実感が湧いてきます




早咲きのソメイヨシノから育成されたという

玉縄桜は

少し前から

もう満開です









<メジロが蜜を吸っていました>





めぶく






 





































これらの写真を撮った日の2日後の18日

全国で今季初の桜[=ヒカンザクラ]の開花が

奄美大島で観測された日に

「宇宙物理学と仏教の対話」の講演会で

この春に子供が家から巣立ち

新しい人生をスタートさせたばかりの

女[め]吹く女性



出会いました





をんな














【女】



象形。

跪いている女の人の形。

手を前で重ねて、うやうやしく霊所を拝んでいる形である。

甲骨文字には小点を加えた字があるが、
それは女を酒で清め祓っている形であり、
神霊に仕えるときの女の姿であることが知られている。

跪いているのは女が男の前で跪いているのであり
女の字には女子が男子に隷属させられていた男尊女卑の時代の思想が反映されているのである
という解釈は
誤っている。


<白川静『常用字源 [第二版]』より>







女偏の漢字はたくさんあります



「姓」

という字は

女系の優先の母性社会に由来しているとか



DNA鑑定ができなかった時代

確かな血統を保証するには

子供を産んだという

決して偽ることのできない事実に基づく

母親の血筋に拠るのが

自然です




(しかし

代理母の制度つくられ

産んだ母と遺伝上の母が異なるという事態が発生してしまい

確かな血筋は

科学的な検査に拠らなければ分からない時代となっていますね



そこまで血筋が大切なのか

という

問いも

そこには横たわっているわけですが…)







「をんな」



「をみな」



転じたもので、

もともとは

結婚適齢期に達した若い女性である「をとめ」よりも

年少の女性

を指していたようです







神霊とは

人知を超えたものの一部



捉えた言葉

だと推測します



言い換えるなら

いまだ解明できていない

宇宙(現象)のある側面



神霊をも包含する

宇宙



不思議にこころを開き

いのち

そのものとして

はつらつと生きる

をんな



増えていきそうな…




























丙申の年の丙申の日に



かいかのひ













宇宙と地球と生命の

起源についての講演会があった日

東京では

例年より2週間早く

梅が開花しました







講演の中で

“社会の役に立たない”


とおっしゃられた

宇宙や地球や生命の起源の探求



それこそが

私には

いま存在している人にとって

もっとも重要な研究のように思えます




血縁や部族や民族といった

閉じたつながりは

敵が存在し

敵との戦いのなかで生き残るための

「痛みの回路」を使いまわした共感の感覚に拠っている

のに対し、

宇宙や地球の進化

そしてその流れのなかで誕生した生命の進化

の事実を知り

全体の大きなつながりを認識することは

敵を必要としない仲間意識を育み

「悦びの回路」による共感をつくりだす大きな一助

となるように

感じるからです




哲学の研究者も参加した

昨日の講演会では、

「私たちがいま存在するのは

無数の宇宙が生まれるなかで

たまたまヒトが存在できる宇宙になっているから」

というマルチバースに基づく考え方よりも

「ヒトがうまれるように

この宇宙は初めからつくられていた」

という人間主義的な考え方の方が

“人間の尊厳”



結びつきやすい

というような意見が出ました




この2つの考え方は

「私たちが観測可能なものは確率でしか予言できない」

という

量子力学によってうまれた

新しい世界観



「一意的にすべてが決まる」という

古典的な世界観




対応しているとも言えます




私などは

「無数に生まれた宇宙のなかで

たまたまヒトが存在できるのがこの宇宙」

という

確率論的な世界観の方が

ヒトが存在していることの奇跡感が増し

ありがたみを感じます




意図した通りになったから

ありがたい

のではなく、

意図すら超えて

いえ

「意図」という概念の及ばない領域で

たまたまうまれたからこそ

尊い



思うのです




それは

意図しても

決してつくることはできない

ということでも

あります


(「意図」という概念自体が 非常に人間主義的なものですね。

まぁ、人間が考えている以上 “人間の認識の型”の縛りは受けてしまうわけですが…)




ただ、

奇跡的に存在しているから

とか

とても希少だから

という理由でありがたがる意識も、

生き残り戦略としてうまれた「痛みの回路」



依拠しているように思えます




生物進化の歴史のデータとして

その感覚は

私たちに確かに刻まれているものですが、

それが意図されたものか偶然か

という

認識の地平を超えて

いま存在していることを

138億年前から脈々と続いている

大きな流れの一部として

捉えることができるなら、

痛みに基づく共感の回路



包み込み

自らの存在の根底から安堵できるような

悦びにもとづく共感の回路を

育むことができる

のではないでしょうか







講演会が終わって

最寄駅に向う途中

茜色から薄紫を経て蒼にいたる

うつくしい夕焼けのグラデーションの中に

くっきりと

富士山の影がそびえていました




どこまでも

すみわたり

はればれとした

夕刻でした










【補記】
(2016/01/12)


この日は 睦月の朔でした



こちらのサイトによれば

睦月の語源は

「親類知人が互いに往来し、仲睦まじくする月」からとする説が有力とのこと


他にも

稲の実をはじめて水に浸す月で、「実月(むつき)」が転じたとする説や

元になる月で、「もとつき」が「むつき」に転じたとする説があるようです




ちなみに

この文章を書いている本日1月12日

関東で初雪が観測されました



はなつ











昨年知った

ロベール・クートラス




彼の展覧会のチラシに載せられた

一枚の絵



いたく

私の心を捉えます




飽かず眺めているうちに

絵の中の女性を取り巻いている枠を

無性にはずしたくなり




カラーコピーをして

黄金に輝く花々と組み合わせてみました
























今年2ヶ所で行われる

展覧会が

今からとても楽しみです


 




























ふゆりて













一 陽 来 復




ふ ゆ



い た り て




ふ  ゆ
























あおいよる













あ あ


あ い て


あ う


あ え る


あ お




BLUE BLUE BLUE.....




冴 え 冴 え と




ぬ く も り し


あ お い よ る












築80年の集合住宅



喧騒の中の静寂

混沌に突如現れたサンクチュアリ



大切に受け継がれ

護り隠された泉のような場の

ギャラリーを訪ねた日に







BLUE < PIE root “bhel-”(=to shine, flash, burn)


山道を分け入る十の月











旅から戻って

一夜明けると

新たな月になっていました




季節の和菓子の文様が描かれた暦



十月は

「山分(やまわけ)」




儲けを山分けする

というような使い方しか思い浮かばない私は

暦の説明を読んで

新たな意味を知りました




ーー山道を分け入ることーー




“黄色の対角線の左右を紅白に染め分けた意匠は、

色づく山の奥へと続く小道のようにも見えます。

人里を離れるにつれ、

深まる秋が思われます。”


























































「十」

の字源は、

ウィクショナリーによれば

“まとめて一本「I」にすることから

後にまとめたことがわかるように中央部がふくれた”

指事文字とのこと

(算木や針の象形 という説もあるようです)




        

<左から「甲骨文字」「金文」「大篆」の文字。
ウィクショナリーからお借りしました。>




「一」を積み重ねてゆき

10個になったときに 1本の縦線として描く

という発想は

私にはとても身近に感じられます







個人的に

今年の九月は、

20年以上お世話になっていた方から

思いがけず

離れることとなり、

また

他のことにおいても

そのこととシンクロニシティーを覚えることがあり、

 これまでの歩みが 横線「一」の積み重ねとすると

桁が変わって「十」になる方向へと

シフトしているかのような時期でした







次に何が待っているのかは

わかりません



ただ

あらたに

山道を分け入る


十の月

です
















<雷鳴 小雨 狐の嫁入り 大雨 曇天 青空 吹き降り にわか雨…
登山口ではちらりと雹も落ちてきて
猫の目のように変わる
ゴージャスなフルコースのような天気でしたが
中秋の名月もスーパームーンもたのしむことができました>
















<泊まった部屋に掛かっていた

墨絵のような山の写真>

その朝を越えて












昨日

ある場所でかかっていた

インストルメンタルのBGMの中の

一曲




今日

ある準備書類をつくる前に

どうしても聴きたくなりました




その曲のためにつくられた

スタジオジブリのプロモーション映像が

観たかったのです




2013年の記事を書いたときには

観られた映像が

その後

あっという間に削除されていて

残念に思っていたのですが、

今日は運良く

アップされたばかりのものを見つけることができました




ここに載せてある写真は

パソコン画面を写したものなので

ピントがボケていて

画質も良くないものの、

幾分かは

プロモーションビデオの雰囲気が

伝わるのではないのかと…




今回も

思い出すのは

ナウシカのセリフです




「われわれは 血を吐きながら

繰り返し

繰り返し

その朝を越えて飛ぶ鳥だ」

















































 












































































その次へ











台風11号「NANGKA」



影響でしょうか




私が住む地域では

連日

島を旅したときを思い起こさせる

やや強めの

さわやかな風が

一日中吹いています




長く続いた雨天の日々が終わり

空が晴れ渡ったとき、

梅雨空に呼応するかのように

長く重苦しかった腰やお腹まわりが

軽くなり、

カラダと気象の

不思議なつながりを

改めてかんじました




そして

いま

大地をふきわたる風が

いらないものを

どんどん

どんどん

そぎ落としていってくれているかのようです





冒頭の絵は

すでにアップしたものですが

いまのかんじに

とても

フィットしているので

再びアップしたくなりました







台風名のNANGKAとは

ジャックフルーツのこと



ドリアンのような

コクのある美味しさがある果物ですが、

かつてマレーシアに滞在したとき

その臭いの強さゆえに

ホテルへの持ち込みを断られたことがあります




和名は波羅蜜




ウィキペディアによれば

仏教用語で「波羅蜜」とは、

パーリ語やサンスクリット語で

「完全であること」



「最高であること」



また別の解釈では

「彼方へ行った」

すなわち

「此岸(=迷い)から彼岸(=覚り)へ至った」



意味するようです




この波羅蜜台風が

通り過ぎたあと

日本の大地に

どんな空が広がり

どんな風が吹くでしょうか






一つの時代が終わろうとしている











「わたしは…

19世紀の喪に

立ち会っているのだ



一つの時代が終わろうとしていた」





ココ・シャネルのこの言葉に触れた

文月初日




夕暮れの空



「いま」というときを現わしているように思え


かんじるものがありました































夏越の祓を経て

古い時代が


終わろうとしています




暁天松籟




 






常に

ひらけた海の景色と共にあった

今回の旅




吹き渡る風も手伝って

息がとてもしやすく

心もカラダも楽で、

意図せずとも

自然にいろんなものがリセットされていくようで、

自らを取り巻く風景や環境が

いかに大事か

あらためて

身を以て実感しました





















一緒に旅した友人の話と、

この5月から6月にかけてが

大きな変換点だった

という

個人的な実感が

符合し、

人間の意識に巣食っていた

吹き溜まりのようなものが

取り除かれ

これから

さまざまな気づきと

それを経ることによってうまれる創造が

いろんなところで

起こるのでは…

という

すがすがしさを、

ひらかれたけしきのなかで

感じています






















帰宅して

パソコンを開くと

アップルのトップ画面が変わっていました




「その時がやってきた」



しばらく続いていたApple Watchの広告の

その言葉が

「いま」とタイミングよく同期しているようで

ずっと

ちょっと

気になっていたのです




旅から戻ってきたら

トップ画面から消えていた

その言葉




「その時がやってきた」




のかも

しれません