Epona
思わず
ジャケ買いならぬ
エチケット買いしてしまった
このワイン
あとで
この絵が
ケルト神話の
大地と豊穣の女神
であることを
知りました
つくり手
が
ケルトの血を継いでいるのだそうです
10億年〜5億年
の
シスト化した岩盤で育った
樹齢10年
の
若い樹からつくられたもの
事前に得ていた情報による
「鋭角的な」印象はなく
抜栓直後はやや固さを感じるものの
それよりも
爽やかさ
が
印象的で
時間が経つにつれて
やわらかさ
や
透明感
が
あらわれてきました
風のきせき
台風8号が温帯低気圧に変わった
「温風至(あつかぜいたる)」
の
最終日
噴き出す風を描いたような雲が
夏空に
ひろがっていました
You are what you meet.
地元の大好きな二つのお店
の
コラボレーション企画
「つくりたいもの たべたいもの 季節の食事会。」
が
今日
ありました
いつもは
野菜料理だけを出している
イチカワさんが
今回は
お魚もお肉も使って
シンプルな調味料で
味わいも色どりも
豊かな
食事を
つくってくださいました
油
塩
味噌
酒
と
調味料の数を絞っているのは
野菜の味わいが
季節やつくり手や土地
あるいは
日によって
異なり
多様であるからだと
おっしゃいます
さらに
調味料の幅まで広げてしまったら
感覚でつくっていく上で
混乱してしまう
から
と
先月
初めて
イチカワさんのお店に来た知人は
最初の箸ではこんだものを
口にした途端
「やさしい〜」
と
言いました
いつ食べても
イチカワさんの料理は
ふんわりとしたやさしさ
に
包まれています
計6品の料理すべてのレシピが
予め用意されていて
決して料理が得意とは言えない私でも
つくれそうな
ものばかり
個人的なヒットは
「とまと味噌」
です
粗切りの湯むきトマトに味噌を加えて
半分くらいになるまで
弱火で煮詰めるだけ
トマトのみそ汁の美味しさは知っていましたが
トマトと味噌を煮込む
ことまで
考えが及びませんでした
この「とまと味噌」
今日は
素揚げ野菜のソースとして
供されましたが
お肉にも
ご飯にも
そして
日本酒にも
あいそうです
(実際 酒の肴となりました)
4人テーブルでご一緒した方達は
みんな
気持ちのいい方で
元来の飲んべえモードに(?)
蒸し暑さも手伝って
ビールと日本酒を
少々
みんなで おいしく いただきました
炊き込みご飯に
みじん切りの新しょうがを散らした
「新しょうがのご飯」
は
しょうが
が
ぴりりと効いて
イチカワさんの狙い通りの
大人の味
ご飯なのに
日本酒の肴にもなるのです
一人一人
異なる
器
は
見ているだけでも
たのしくて
<同じテーブルの人に出された それぞれのご飯>
シンプルな調味料で
多様な味わいを
引き出し
多様な色合いを
生かしていて、
その多様さが
うまく
バランスしているからでしょう
食べ終えたときに
「あぁ おいしかったー」
と
自然に思えるのでした
*
昨日アップした記事の器と同じく
佇まいのうつくしい料理
は
それを口にするものの
居ずまいを
ととのえてくれます
心のいきとどいた丁寧な仕事は
それを受け取った人に対しても
その心の在りようが伝わり、
その心でもって
自分が遇されているように
ごく自然に
実感させるのかもしれません
今日の食事会は
You are what you eat Project
と
銘打たれていました
ブリア・サヴァラン
の
“Dis-moi ce que tu manges, je te dirai ce que tu es”
という
言葉
を
思い出します
「ふだん何を食べているか 言ってごらんなさい
そうすれば
あなたがどんな人であるかを当ててあげましょう」
人は
他者とのまじわりのなかで
育まれていきます
新しい風は
外から
やってきます
そのまじわりの中で
「ふだん何を食べているか」
も
かわっていきます
「いいな」
と
心から思えるものが
いま
ここに
存在していること
そして
それに出逢えること
さらには
それを思いつくこと
が
ほんとうに
ありがたく感じる
今日この頃
です
佇まい
暑さが本格的になってくる
という
小暑
の
日
うつくしい佇まいの器
に
出逢いました
おおらかな女性らしいフォルムに
きりりと
ひとすじ引かれたラインが
全体を引き締めていて
しなやかな
強さ
を
かんじます
ふと
数日前に目にした
あるワインについてのコメントの中の
「鋼鉄でできた絹を連想させるような
繊細でしなやかながら、力強さを感じさせ、
偉大な生命力を感じさせる」
という
文章を思い出しました
なにか懐かしさを感じるこの器
を
観ていると
中東や中央ユーラシア
そして
旅する民
の
香りが
漂ってきます
うつくしい佇まい
は
側にいるものの
居ずまい
を
自然に
ととのえてくれるのだなぁ
と
改めて
モノ/存在 の ちから
モノ/存在 の はたらき
に
感じ入った
今年の七夕でもありました
なごし
「夏越の大祓」
と
時を合わせるように
一つの区切りを迎えている
ように観じられる友人へ
花を贈りたくなりました
「一つの終わり と あらたな始まり」
maanoさんは
お伝えしたイメージ通りに
お花をアレンジしてくださいました
瑞々しくさわやかな緑
が
透き通る風のよう
ミントや青リンゴなどによって
香りもデザインしてくださって…
はなひらく美しさと
あらたな息吹を観じます
*
このお花が
友人へ発送された昨日、
お世話になっていたある方が
転身することを知りました
夏を超えて
実りの秋へ
今年ほど
「夏越し」という節目を
強く
意識したことはありません
昨日は
「半夏生(はんげしょうず)」
農家にとっては
この日までに田植えを終える
大事な節目の日
とのこと
このところ
節目や区切り
というものの大切さを
実感しています
[冒頭の写真は maanoさんが撮影されたものをお借りしました]
アレンジメントについての説明はこちらへ
いのち うぶすなのこころ
昨日
鉛筆画家・平野峰生さんの個展を
拝見してきました
友人が平野さんと対談する
ということで知った
この個展
何の事前情報も持たずに
対面した
平野さんの絵は、
出会った方
ひとりひとり
それぞれの
輝きに
あふれていました
描かれている方の多くが
ご高齢である
ことを考えると
少々語弊があるかもしれませんが
「遺影にしたいなぁ」
と
思わせる何かを
その絵はたたえていたのでした
*
奥三河の里山の風景を描いていた
平野さんが
肖像画を描くようになったのは、
その里山の美しさをつくっているのは
そこに住む人たちが
その地を愛し
手を入れ続けている
その心である
ことに気づいたこと
が
きっかけだったと言います
『風景はそこに住む人の心映え』
とは
平野さんの言
確かに
わが身を振り返ってみても
家の中や庭の在りようと
己の心の状態は
鏡のように映し合っています
そう気づけば、
通常
生まれた土地(の神)を意味する
産土(うぶすな)という言葉は、
もっと広く
「土地と交わり
土を産(はぐく)む
こころ」
と
捉える方がふさわしい
ように思えてきます
それは
「つち と ひと」
に
限らず
ひと と ひと
ひと と モノ
ひと と コト
など
ひとが関わるすべてに対して
言えるのではないでしょうか
平野さんに肖像画を描いてもらった
一人の方が
その
“まじわり”
を
「いのち」
と
表現しておられました
いのちは
ひとりひとりのなかにあると同時に
ひとの関わりによって生まれ
そのなかにもある…
平野さんが
絵における余白について尋ねられたとき、
物質としては紙の色でしかない
その白が
描き方によって
眠りについている村に降り積もる雪の白
にも
棚田に勢いよく流れ込む清水の輝きやしぶき
にも
その方が生きてきた人生を刻む顔を照らす光
にもなる
と
おっしゃっていたことを
思い出します
ひとりひとりのいのち
は
鉛筆画における鉛筆
のようなものなのかもしれません
ひとつのいのち
というつながりを
さまざまな風景に描き分ける
鉛筆の陰影ような…
【追記】
「風景はそこに住む人の心映え」
という視点から
この国
の
町並みや公共建造物
について
考えてみることで
あらたな なにかが
うまれてくるかもしれません
からだにまかせる からだをまかせる
やれやれ
やれやれ
どっこらしょ
あ〜〜〜〜〜
らくちん
らくちん
力は要らなかったのだなにゃぁ〜
*
こちらは
OYA TOKURYOさんの写真
です
ひとつひとつ確実に
よいしょ
よいしょ
いのちは ゆっくり すすみます
*
昨日まで
玄関に飾っていた
YAMASHITA MICHITAKAさんの写真
を
使った
ポストカード
です
夏至タイム
今日
たっぷりのタイム
を
いただきました
部屋に飾って
お茶にして
お風呂に入れて
ポプリにもして…
と
使い道を思いめぐらしながら
とりあえず
竹笊に盛って
玄関に
<ティートゥリーと山盛りのタイム>
端午の節句に飾られていた薬玉は
もともとは
その香りによって邪気をはらうために
薬草や香草を袋に詰めたもの
と言います
すでに
旧暦の端午の節句も
とうに過ぎてしまいましたが、
梅雨はこれからが本番
明日あたりから
梅雨空が戻ってくるとの予報ですから、
雨に降り籠められる時期を
今日のタイムと
少し前にいただいたティートゥリー
香り高い植物の力を借りて
清々しく過ごすことができそうです
<こちらは亜麻と一緒に>
そういえば
明日は夏至
ヨーロッパでは夏至祭が行なわれます
フィンランドでは
夏至の日に
ポプラや白樺の葉で窓を飾るとか
また
夏至の前夜に摘む薬草は
特に効果があると
信じられてきたようです
摘んだばかりのタイムをいただいたのは
夕刻ですから
夏至の前夜
に
かなり近い
と言えますね(笑)
夏至の夜
(かつて一日は夜から始まりました)
の
今宵は
洋の東西の伝統に思いを馳せ
香草のお風呂を
楽しむことにしましょうか
<亜麻の花>
イメジェリー
昨日 梅雨入りした 関東地方
一夜明けた今日は
梅雨らしい雨の一日で、
途切れることのない雨音を聞きながら
「これはイメジェリーに使えるのでは」
と
気づいたのでした
*
梅雨らしい雨の一日で、
途切れることのない雨音を聞きながら
「これはイメジェリーに使えるのでは」
と
気づいたのでした
*
フランクリン・メソッドの
イメジェリーの一つに
「背中を流れ落ちる川」
があります
イメジェリーの一つに
「背中を流れ落ちる川」
があります
流れ落ちる川が
背中のすべての緊張を洗い流すところを
視覚化するのです
背中のすべての緊張を洗い流すところを
視覚化するのです
今日 気づいたのは
そのイメジェリーに
実際の雨を使う
ということ
単なるイメジェリーよりも、
空から降り注ぐ雨の存在感と雨音といった
「現実」
を
用いることで
よりアクティブに
より効果的に
身体にはたらきかけることができる
ように思えるのです
空から降り注ぐ雨の存在感と雨音といった
「現実」
を
用いることで
よりアクティブに
より効果的に
身体にはたらきかけることができる
ように思えるのです
このイメジェリーは、
背中に留まらず
鼻筋や胸椎や直筋や腕や脚など
まっすぐなラインを見出せる箇所なら
使うことができます
また
身体のデザインからは外れますが
この雨は
自分にとって最も心地よい水温の
シャワーを浴びて
全身の詰まりや汚れを落としている
イメジェリーにも
使えそうです
背中に留まらず
鼻筋や胸椎や直筋や腕や脚など
まっすぐなラインを見出せる箇所なら
使うことができます
また
身体のデザインからは外れますが
この雨は
自分にとって最も心地よい水温の
シャワーを浴びて
全身の詰まりや汚れを落としている
イメジェリーにも
使えそうです
…と
書いているうちに
どんどん雨脚が強くなってきました
書いているうちに
どんどん雨脚が強くなってきました
この雨を使って
身体の中の不要な滞りを洗い流しなさい
ということでしょうか(笑)
仏教徒は、
雨期には 草木が生い茂り 昆虫など数多くの小動物が活動するため、
無用な殺生をしないよう
遊行をやめ一カ所に定住して修行をしたと言います(=安居・あんご)
雨に降り籠められる梅雨の時期、
空から降り注ぐ雨を有効に使って
自らの身体を調える機会と
捉えてみるのも
またよし、
かと
今日は芒種
「芒(のぎ)ある穀類 稼種する時なり」
雨期には 草木が生い茂り 昆虫など数多くの小動物が活動するため、
無用な殺生をしないよう
遊行をやめ一カ所に定住して修行をしたと言います(=安居・あんご)
雨に降り籠められる梅雨の時期、
空から降り注ぐ雨を有効に使って
自らの身体を調える機会と
捉えてみるのも
またよし、
かと
今日は芒種
「芒(のぎ)ある穀類 稼種する時なり」
森の戸のみなもと
麦秋至
(むぎのときいたる)
昨日
友人たちと一緒に
森の戸という名を持つ流れの
水源の山を
歩いてきました
最高気温が30度を超える真夏日
にも関わらず
この場所にしては結構な人出でした
私たちも含めて
行き交う人たちが
「今日は人が多いね」
と
口にしているのが
なんとも おもしろくて…
昼食は
ジャスミンの香りをやさしくしたような
白い花が満開の
木の下で
*
大地から染み出る水が
ぬかるみをつくり
やがて
小さな流れとなり
きがつけば
いつのまにか
川と呼ぶにふさわしい
堂々たる流れになっている…
という
ある意味
当たり前のプロセスを
身体とともに辿っていくことは
歓びであり
驚きでもあり
新鮮でもありました
無限在の御宿り
その教会は
坂をのぼった台地の上にありました
縄文海進の時期は
ミサキだったところ
目白坂をのぼりながら、
1週間ほど前
江ノ島の参道を歩いているときに
ご一緒していた方が言った
「モン・サン=ミシェルみたい」
という言葉が
浮かんできました
*
聖ミカエルの山
モン・サン=ミシェル
龍退治で有名な聖人の名を冠した
その小島は
もともと
ケルト人の聖地だったとか
一神教において
無意識や暗黙の領域と関わる 水や流体の
象徴ともいえる龍が
悪魔とされたのは理解できます
その島は
水の聖地だったのでしょう
島の頂を覆うように建てられた
修道院は
先人が祀ってきたものを 封印し活用してきたことを
物語っているかのようです
*
目白一帯が
わき水の豊かな地であることを
教えて下さったのは
その地にある古民家の「井戸守り」を自称している方でした
目白不動はもともと
関口台地の崖に添うように延びるこの坂の
南斜面にありました
滝や川など
水に関わる聖地には
必ずと言っていいほど
密教由来のお不動さんが祀られています
密教は
日本において
ある意味
キリスト教的なはたらきを
してきたのかもしれません
(実際 空海と景教のつながりを指摘する方たちもいます。
景教自体は それ以前に
渡来民を介して
日本に伝わっていた
可能性は高いと思われます。)
*
坂をのぼりきって たどりついた教会は
丹下健三さんが設計したもの
家人が「あれはすごい」と勧める教会が
先月 別の話の中で出てきた教会と
同じであることに気づいて
少し興味をそそられたのでした
そびえ立つその建物を見ながら
「モン・サン=ミシェルみたい」
と
心の中でつぶやき
映像でしか知らないその場所を
思い浮かべていました
無原罪の聖マリアを記念し マリアに捧げられた
その教会は
無原罪の御宿りの祝日である
12月8日に落成
教会の西側には
フランスの「ルルドの泉」を模した洞窟があります
水は湧いていないけれども
この地に
水にまつわる聖地をつくったのは
理に適っているように
思えます
目白にある
おいしいクレープとガレット(とワイン♪)のお店の名が
ル・モンサンミシェル
なのは
たまたまなのでしょうか…
*
去年の春
つばきやまへ行ったとき
この教会は目に入っていたのですが
大仰な建物だなぁ
という
うっすらとした印象しか残っていません
たしか
つばきやまを訪ねたのは
水にまつわる動機からでした
*
み な そ こ を
ふ う
い ん
し た る
せ き
く ち
の
わ れ
し る
だ い ち は
い き
無 限 在
*
2014/05/19(月)
【追記】
(2014/05/22)
ルルド(Lourdes)とは
岩だらけの坂
という意味のようです
余談ながら
ルルドの泉を模したものは
1899年に長崎県福江島の井持浦教会につくられたものが
日本最古とのこと
こちらのサイトによれば
五島列島には
ルルドの泉が多くつくられているようです