おりおりに 出逢った      「すきなもの」を      縦横無尽に ご紹介
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一陽来福


昨日 あるサイトで ブラジルに「光の塔」が立ったという映像が紹介されていました。

そのサイトでは ときどき 世界で報告される「光の柱」が紹介されており、
これまでは たぶん光学的な説明はつくのだろうけれど不思議な現象もあるものだなぁ と思う程度だったのですが、
なぜか昨日は その映像が少し気になったのでした。


光の塔が見えた場所は ブラジルのパロティナという町で、
ふと思い立って 地名の意味を調べたところ
Palotinaの意味は分かりませんでしたが
その町がある州の名のParaná(パラナ)は
先住民であるグアラニーの言葉で「神の母」を意味するようです。

ラプラタ川へ流れ込むパラナ川は その支流にイグアス川を持ち、
イグアス川がパラナ川に合流する地点の25Km手前に あのイグアスの瀧があります。
ラプラタはスペイン語で「銀」や「お金(転じて「富み」)」
イグアスはグアラニー語で「大いなる水」の意味。

私には “盗まれた女神”や 我が国の古の書に記された女神につながるものを
そこに観じるのでした。
更に ブラジルという名がポルトガル語で「赤い木」を意味すると知って、
今年 「赤」が気になってきた私としては ますます不思議な感覚に包まれます。
また その映像が撮影された12月17日という日付 そして 撮影された日本時間である12月18日は
個人的に思うところがある日でもあるのです。


“あかいき”の大地で “大いなる水”が“富”に変わる流れの途中の“神の母”の地に立った ひのはしら


その映像はこちらです。
他にアップされていた映像の情報を総合すると
現地時間の20時15分頃 パロティナの地に
沈みゆく太陽と反対の方角に 光の塔が立ったようです。


 
 


 
参考までに
この映像を知ったサイトで紹介されていた 他の「光の柱」の写真を
転載しておきます。

(これらは 人工的な光に見えなくもありませんが
幻想的な風景として見ていただくのも悪くないかと…)

 
 

(2009.01.17 ラトビア)


 
 
 
(2009.01.26 アメリカ・オクラホマ州)
 




12月17日は 旧暦の11月5日
霜月の別名に “復月” があります。
旧暦では冬至は11月の出来事で
復月という名は 一陽来復の意につながるようです


クリスマスは 古代の冬至祭に由来するものですが、
冬至は気になっても
今年ほど クリスマスというモノが 意識からすっぽりと抜け落ちた年はありませんでした。
文字情報や町の景色としてクリスマスというものを認識していながら
今思い返せば 実態がまったくない まるで記号のようなものに、
少なくともわたしの意識の中では なっていたのでした。
そして それを決して悲しいことではなく
むしろ喜ばしい出来事として 認識している私がいます。


やっと 人は 神という意識から解放されるのかもしれない
そんな希望のようなものと共に…


古き太陽(ヒ)の時代が終わり
新たなひと(ヒ)の時代が始まる


これまでの物語を繰り返す 一陽来復 ではなく
あらたなモノコトが始まる 一陽来福 として
ブラジルの光の塔の映像を観ることができるような気がするのでした



 




【コメント】

「福」という字源をウェブ上で調べたところ
「畐」は “徳利に酒をたっぷり満たしたさま”を描いた象形 で “祭壇”を現わす「示」と併せて
「(神の)恵みが豊かなこと」を意味する文字のようです


 

すすむために




かたりつぐ ひともなく

ふきすさぶ かぜのなかへ

まぎれちらばる ほしのなは

わすれられても

ヘッドライト テールライト 旅はまだ終わらない

ヘッドライト テールライト 旅はまだ終わらない




あしあとは ふるあめと

ふるときの なかへきえて

たたえるうたは

えいゆうの ためにすぎても

ヘッドライト テールライト 旅はまだ終わらない

ヘッドライト テールライト 旅はまだ終わらない





 
行く先を 照らすのは

まだ咲かぬ 見果てぬ夢

遥か後ろを照らすのは

あどけない夢

ヘッドライト テールライト 旅はまだ終わらない

ヘッドライト テールライト 旅はまだ終わらない





by  中島みゆき さん

 



 

りんご









数年ぶりに

自然栽培のリンゴを 手にすることができました



『奇跡のりんご』の木村秋則さんのリンゴが

手に入らなくなって以来

ずっと待ち望んでいたことでした



幸いなことに

自然栽培のリンゴに出逢えなかった期間は

なぜか

リンゴを食べたいという気持ちがあまり湧かなかったので

それほど困ることはありませんでした



そして今年は

久しぶりにリンゴが食べたい心身の状態となり

どうしようかな…

と思っていたところに届いた朗報



自然の理に即して無肥料・無農薬で育む 自然栽培に

取り組み始めたばかりの生産者さんでしたから

実のところ

それほど味に期待はしていませんでした



ところが…



ひとくち ほおばると

口いっぱいに

大地の歓びを感じます



このリンゴを育んだ大地が蘇っている…

そんな印象に満ちあふれていたのです



大玉のそのリンゴ

食べるのは半分だけのつもりだったのですが

あまりのおいしさに

気がついたら

しあわせなきもちにつつまれて

一個まるまる

食べていました





まずは一本の樹からのスタート

とのこと

これからが楽しみです










 

木のうつわ









先月訪ねた先で案内してもらった

漆の職人さんのお店で

注文していた

曲げわっぱの湯呑みとぐい飲みが

届きました



こんなにも細やかで美しい留めの編みを見たのは

初めてです



曲げわっぱは 東北のイメージが強かったのですが

西日本でも こんな素晴らしい品をつくってらっしゃる方がいること 

そして

接着剤を用いるわっぱが多い現在

薬剤を使わず昔ながらの方法を踏襲していることが

とても嬉しくて…



どんなものを入れても変質しない漆も

唯一 紫外線で劣化すると思っていたところ

この塗師さんが言うには

変色はするけれど

強度は落ちない とのこと




漆器や木器は

熱々のお湯を入れても

手にはやさしい熱しか伝わりません

そして

モノとしても

持つ手にやわらかく、

気がつくと

このところ 木の食器を使うことが増えています



陶磁器のリサイクルが進まない一方で

陶土を採るために山が削られ続けている現状を考えると

もっと木器が使われるようになればいいな

と思います



そして

少なくとも縄文初期から使われていた漆の

物質的な可能性が注目されつつありますが、

今の生活でも

もっと活かされてほしいなぁ

とも思うのでした














 

あかいみ









初冬の山の中では

赤い実が

眼に留まります

(ピンぼけ ご容赦下さい)




今年は

なぜか「赤」色が気になる

一年でした



世界的にも

海や川が赤くなったり

赤い雨が降る


ということが起こっているようです





 

あまてる








山を歩いていて

ある場所にさしかかった時

一面の笹が

陽に照らされて

輝く海のように見えました



うまく写真に捉えることができなかったのが残念ですが

雰囲気が少しでも伝われば

幸いです




あまてる

天てる

海てる

女てる

数てる














 

はつはな








十二月の初日

今年初めての雪を見ました



この日は

曇り 霧 雹・霰 雪 雨 青空… と

多彩に変わる天候で、

生まれて初めて

雪の中に轟く雷を聞きました

(山では 珍しいことではないようです)



最終的には

気持ちよく晴れ上がり、

陽の傾きに応じて移りゆく

大地のいろを

新鮮な驚きと共に

堪能することができたのでした




 

祈り









昨夜

何の説明もなく流れるように始まった曲は

祈り

でした



一緒に行った家人は

レクイエム

だと

感じたようです



演奏後

3.11の後 初めてつくることができた曲

と知りました



“ KIZUNA WORLD-pf02 ”




3.11後初めて行われる国政選挙を控えて

もう一度

3.11のときのことを思い出してほしい

という思いから

最初に弾かれた曲



HAPPY END



向けて…








 

どうき



          坂本: 我々が普段何気なくやっている動作、
              たとえばお酒を飲むときにお猪口をもって、口に持っていきますよね。
              このなかに、ものすごい力が込められている。
              腕の力を使って意図的に行うのでは到底及ばないくらいの力が、
              我々が無意識に物を動かすときには生まれている。

          竹村: なるほど、なるほど。

          坂本: すごい怪力の男に、こう腕をつかまれたとして、それを離そうと思っても
              絶対離れないですよね、向こうの方が強ければ。
              ところが、お猪口を持つような感じで自然に手をあげたとすれば、
              簡単にあがっちゃうんですよね。
              これはとても微妙な身体感覚で、普通に言うアスレティックな運動感覚とは違う。
              そういう気づきっていうのかな、自分の身体の隠れた次元、隠れた能力に気づくこと。
              それがいかに天と地につながっているか、同じ力が支配しているか、
              っていうことに気づくかどうかだと思うんです。

          竹村: 大事なのは、自分の意図で持ち上げて、自分のなかで完結するメカニズムじゃない
              ってことですよね。
              物体でも他者でも、その対象との関係のなかで、ある秩序がそこで形成される。
              その関わりが調和的にコーディネイトされ、同期していると、
              誰の力も使わない、というか自分の力を超えた力が働く。





< 『地球を聴く 3.11後をめぐる対話』 より >









自分も含めて
「どうしてこの世には大人がいないんだろう」

思い続けてきた私には、
“人類は「幼年期」を卒業できるか?”
という
帯に書かれた問いは
非常に腑に落ちるものでした


 

ふゆけしき



狭霧(さぎり)消ゆる
湊江(みなとえ)の
ただ水鳥の
声はして

舟に白し
朝の霜
いまだ覚めず
岸の家



烏啼きて
木に高く
げに小春日の
のどけしや

人は畑(はた)に
麦を踏む
かえり咲きの
花も見ゆ



嵐吹きて
雲は落ち
若し燈火の
もれ来ずば

時雨降りて
日は暮れぬ
それと分かじ
野辺の里









なぜか「さぎり」という言葉が浮かび
そして 気にかかり、
ウェブで調べているなかで
『冬景色』という歌に出逢いました


歌詞が
いまという「とき」に
ふさわしいような気もするので
メモとして
ここに記しておくことにします





冬とは
増ゆる とき



「さぎり」
という言葉は
『先代旧事本紀』における天祖の名のなかに
見つけることもできます