懐かしい宇宙
以前 受講した宇宙に関する講座で
地球上のある地点から
視点が徐々に上昇しながら
地球
太陽系
銀河
銀河団
…
と
宇宙を俯瞰するシュミレーションを
見せていただいたことがあります
同様のアプローチによる本が
日本で出版されていました
10xメートルの対数で記されていく 宇宙の地図
そのどれもが
なぜか
なつかしく思えるのでした
遠くを観ることは
過去を観ること
いま という この場所から
137億年の歴史を俯瞰することができる
(現段階では 電磁波で観測可能な「宇宙の晴れ上がり」の地点まで)
不思議さ
電磁波という「光」によって
一体となった時空を
実感することができます
『重力とは何か』によれば
観測できる最大値の宇宙の果ては 「10億×10億×10億メートル」のスケール
片や 観測できる最小のスケールは 「10億×10億分の1メートル」
なにか シンプルな法則が潜んでいるような印象を持ってしまう
数字です
いま
10億×10億×10億メートルの地点で
マクロな世界が
10億×10億分の1メートルのミクロな世界と
つながりつつあるようです
あいそめ
昨日 久しぶりに訪れたパン屋さんに
藍染めで 一年の月の満ち欠けを描いた 手拭が
飾ってありました
月の満ち欠けを記したカレンダーは
使っていますが
こうやって一年を俯瞰してみると
新月のラインが
ゆるやかな上昇曲線を描いていて
それが何とも言えず
美しく
その 太陽暦ならではの文様に
しばし
見入っていました
なんでも
これを創っている方が
そのパン屋のふすまを使っているとのこと
いろいろ試してみたけれど
そのパン屋のふすまを使ったときの発色が
とてもよいのだそうです
(なんとも舌(?)の肥えた発酵菌たちです。笑)
そして今日
ちょうど今月一杯行われている その作り手さんの展示会へ
行ってきました
一日の 空の青を表現した
24枚の 藍染めの和紙
の
インスタレーション
微風に舞い うつりゆく
あいいろ
を
飽きることなく
眺めていました
現場にきく
わからなくなったら 現場に聞くんやな
話が混乱して つじつま合わんようになったら
野っぱらに出て
ウロウロ歩くことやな
それでもわからん時は
日暮れ前に山に登るこっちゃな
山いうてもな
「富士山登れ」いうてんのと違うで
その辺の丘でええんや
丘で
野っぱらに出て
ウロウロ歩くことやな
それでもわからん時は
日暮れ前に山に登るこっちゃな
山いうてもな
「富士山登れ」いうてんのと違うで
その辺の丘でええんや
丘で
<『農的幸福論』より引用 今西錦司氏のことば>
水五則
自ら活動して他を動かしむるは水なり
常に自己の進道を求めてやまざるは水なり
障碍に逢い激してその勢力を百倍し得るは水なり
自ら清うして他の汚れを洗うは水なり
洋々として大洋をみたし
発しては蒸気となり雲となり雨となり雪と変じ霧と化し
凝っては玲瓏たる鏡となりて
しかもその本性を失わざるは水なり
常に自己の進道を求めてやまざるは水なり
障碍に逢い激してその勢力を百倍し得るは水なり
自ら清うして他の汚れを洗うは水なり
洋々として大洋をみたし
発しては蒸気となり雲となり雨となり雪と変じ霧と化し
凝っては玲瓏たる鏡となりて
しかもその本性を失わざるは水なり
場を支える
ここ数年は かつて毎日のように聴いていた音楽をほとんど聴かなくなり
大勢の人が集まる場所も得意ではないのですが
なぜか このフェスティバルの二日目 私は幕張の会場にいました
(「脱原発」は
“地球を破壊することのない社会”を志向する私のベクトルと 重なりますから
このフェスティバルのメッセージに 違和感はありませんでした
ただ
人が集まることで生じる 集合的な無意識と
それに飲み込まれる人々の中にいることを
好まない というだけなのです)
このイベントでは
「場を支える」ことの大切さと重要性を
改めて 実感することができました
私にとってそれは
イベント全体を通して というよりも
私が観た3つのセッションの場において
強く感じたことでした
それはまた
「音楽の学校」というテレビ番組で、
山下洋輔さんがその場を支えることによって
参加していた人たちが 自由に自らを表現していた
あの 歓びに満ちた開放感 を
思い起こさせるものでした
坂本龍一さんが
忌野清志郎さんが
細野晴臣さんが
それぞれのセッションにおいて
観客をも含めた「場」を支えていた
ように
私には感じられたのです
どれだけ熱い演奏をしていても
飲み込まれずに
どこか醒めて 全体を俯瞰している
そんなまなざし ありかた を
見せていただいた日でした
トルティーヤ
今朝
無性に食べたくなって
スペイン風オムレツを つくりました
いつもつくってくれる家人に
分量などを聞いて
軽く下ゆでしたジャガイモに
刻んだ ドライトマトとミニセロリ
大地で栽培されたミニセロリの
香しさが アクセントとなりました
【余 談】
スペインを旅したときのこと
いまひとつ胃腸の調子がよくなかった ある日
入ったレストランでやっと見つけた 食べられそうなメニューが
「トルティーヤ」
私の脳裏には メキシコ料理のトルティーヤが浮かんでいました
が、
出てきたものは
そのとき一番食べたくなかった卵料理の
スペイン風オムレツ
そのときやっと
トルティーヤ(tortilla)という単語は 国によって意味が異なることを
思い出したのでした
nowhere, now here
どこでもなく どこかでもなく
いま ここに
あることの
うつくしきこと
*なぜか なつかしさを覚えた 同タイトルの鈴木知道さんの絵。
ご本人の了承を得て 私のことばとともに 掲載させていただきました。
残り香
先日いただいてきたバラの花
今年のはじめの出来事のようなことは起こらず
次第に しおれてきました
湯船に浮かべることも考えましたが
籠に入れて ドライフラワーに
香りが いっそう 際立ちます
人工的に抽出した エッセンシャルオイルの香りは
強すぎて バランスが悪く ちょっと苦手
(実際 日常的に使っていると 身体〜特に肝臓〜への負荷も生じます)
やはり 自然な香りが 一番ですね
一日に一度は
籠に顔をつっこんで
残り香を楽しんでいます
しゅったつ
花は みな しおれゆき
青春は必ず老年に席を譲る
そのように
人生のいかなる段階も
いかなる智慧も いかなる徳も
時を得て咲き誇り
永遠に永らえることはできぬ
それゆえ
人生のどの段階にあっても
別離と新たな始まりへと
常に心を準備させ
臆することなく
悲しむことなく
新たに向かいくる絆へと
あゆみ入らねばならぬ
すべての始まりには 魔法が宿っており
それらが我らを護り
我らの生を助けてくれる
(ヘルマン・ヘッセ)