おりおりに 出逢った      「すきなもの」を      縦横無尽に ご紹介
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葦辺より満ち来る潮










録画していた再放送のドラマを見ていた時

待ち合わせ場所の美術館に展示されていた

一枚の絵が

印象に残りました




エンディングのテロップで確認したその美術館へ

昨日訪ねたところ、

行なわれていたのは

「東山魁夷と日本の四季」の展覧会




常設展示されているかもしれないという

ささやかな期待は外れ、

奥村土牛氏の「鳴門」を観ることは叶いませんでした



その代わり

思いがけない

素晴らしい絵との出逢いがありました







冒頭の写真はその絵を用いた葉書なのですが、

「日本画は、

鉱物を原料とする岩絵の具や、

和紙といった自然の中にある素材が用いられてるため、

印刷物ではなかなか本来の色彩や質感など、

その魅力が伝わりません。」



学芸員の方が語っているように、

私が観て体験した絵とは“別のもの”



なってしまっています




箔や砂子で描かれた 岩に砕ける波しぶきが

計算された照明によって

きらめき躍動していた 色あいや生命感が

印刷物では

まったく伝わってきません




ネットで写真をいろいろ探してみても

結果は同じでした




この場所に置かれる絵として描かれた

「満ち来る潮」




東山氏は照明にも指示を出し、

公開の前日には

採光の具合でどうしても手を加える必要があると

6〜7時間近く補筆されたそうです




斜め横

やや斜め横

真正面

また

立っているか座っているかによっても

絵はまったく異なる表情をみせます




本当に目の前に潮が流れているかのようで、

絵が大きいということもあるのでしょうが

目の前を人が行き交っても

目の前に人が佇んでも

海を眺めているときのように

それらは景色の一部となり

まったく邪魔にならないのです




そして何よりも驚いたのは

いえ

私をそこに引き止め続けたのは

絵の場が

ほとばしり溢れ

わきたち

振動している

ことでした
 



それは

本当の海を感じているようなリアルな臨場感

というのではなく、

もっと根源的なところから噴き出してくる 何か













ちょうど今読んでいる本『ミクロコスモス ー夜の知恵ー』で言及される

「物質と精神、内部と外界、末端の神経組織と大脳の組織、

あるいは自然と人間の文化などの

対立を超越したところにあらわれてくる」

レヴィ=ストロースが言うところの「構造」

や、

「時間による秩序づけを越え、

空間的構造としてとらえることもできないほどの

高次元的ななりたちをしているために、

およそ語り尽くすことは難儀なもの」

や、

「空間以前、時間以前、存在以前、秩序以前、思考以前」



「いっさいの『機』が動き出す直前の、力みなぎる未発の場所」

である

度会神道における「機前」

や、

神仏たちの背後に広がる

「後戸の空間」

といったものを

思い起こさせます




私のコトバで言うなら

「ひとつ」の場



「在一場」

となるでしょうか




まるで

対称性が破れて宇宙が始まる

その前の

対称性の“うみの場”の振動が

描かれた海を介してそのまま伝わっているかのようでした




そしてその振動は

絵がそのように描かれていることによって

いまここに現れ

伝えられているのだと気付き、

その時初めて

Technology/Technique(技術)とArt(芸術)は 同じ語源である

ということが

実感を持って理解できました




「Nature(自然)」と相補する「Techne(技術と芸術の語源)」



わたしたちの源への回路

となりうるようです




 








「満ち来る潮」

というタイトルが

万葉集の

「葦辺より 満ち来る潮の いや増しに 思へか君が 忘れかねつる」

から採られたと知り、

そこに

その日読んだばかりのページに出てきた

「葦」の文字を見つけて

そのタイムリーさに


私はちょっと

笑ってしまいました




「機前」という言葉をつくった度会家行氏は、

「天地開闢の後ニ、虚空の中ニ一物あり。形葦牙[あしかび]の如」きものとし

ここで言う

葦は あらゆる母音の最初の音である「ア」であり

牙は その「ア」音とともに盛り上がってくる強度の先端部である、

という分析が

その本には記されています




私も同様の認識を持っているものの

音の特性を観じるには

「ア」より「A」の文字の方がよいと思うゆえに

ローマ字表記によって

母音があらわしていることを考えていくと、

「I(イ)」は

「A(ア)」があらわれいづる勢いやベクトル

「U(ウ)」は

「I(イ)」を経てモノカタが浮き うまれてくるはたらき



捉えることができ、






「うしお」



読みたい私には

この絵は

まさに

存在の世界を葦の芽のように立ち上がらせる「A(ア)」の場

である

「葦辺」

から

満ち来る「U(ウ)」としての潮



あらわしているように感じられるのです




この理解は

私がこの絵に実感/実観したことと

ぴったり

寄り添います







また

「満ち来る潮」



私に

千住博さんの「滝」



思い起こさせました




私の実感/実観において

千住さんも

後戸との回路としての絵を描かれている方です



調べてみると

千住さんは

東山魁夷氏と 東山氏が描いた「青の世界」に強い憧憬を抱いている

という記述がありました



「満ち来る潮」は 特定の海を描いたものではありませんし

千住さんは 風景を写実しているわけではない とおっしゃっいますが、

ここで私は

『人間の建設』の中で小林秀雄さんが話題にされた

地主悌助さんという画家が「写実しか認めない」と言ったことを

思い出すのでした




具象に

いまだあらわれない場からのほとばしりを観じ、

いまだあらわれない場からのほとばしりを

具象にあらわす…




私たちは

あしべよりみちくるうしお



ともに

いきることができるようです








【追記】
(2015/01/30)



一昨日 帰宅して

ネットで東山魁夷さんについて調べていたら

東山さんが 建築家の吉村順三さんと同窓であり

東山さんのご自宅を 吉村さんが設計されたことを知りました



吉村さんは 私が好きな建築家の一人です



また

「フィラデルフィア松風荘」も検索にひっかかり、

吉村さんの設計で

東山さんが襖絵を描かれ、

その襖絵が破壊されたため

千住さんが新たな襖絵を描かれた

ことを知りました



思いがけず

好きな方たちのつながりが見えて

うれしくなった私です