いのちのき
この週末たずねた地域の
東[キ]の地に
うねるような枝と根を持つ
大きなクスノキがありました
岡本太郎氏の造形
や
メドゥーサ
を
想起させる
その姿
いのち
の
ほとばしり
を
かんじさせます
*
ある寺院の庭園では、
白砂に同心円が描かれた庭を
解脱の状態を現した
とするのに対し
六道の状態を現したとする庭は
さまざまな苔が生していました
それが 私には、
いのちの
複雑性や不可解やありのままを削ぎとったものを
理想の状態
と捉えているように思われ、
実態から離れ
抽象へと向かう
一神教に象徴される宗教の
ある側面を現しているように
観じられました
いわゆる
「生命の木」
とされるものも
それが紋様であるがゆえに
左右対称化したり
抽象化しており、
どうしても
本来のいのちに対する
表層感や浮遊感が
否めません
岡本太郎氏が発見するまで
その芸術性が気づかれもしなかった
縄文土器
や
後から来た者たちによって
怪物に貶められた
メドゥーサ
が象徴する
つよく しなやかな
原初の生命力のようなものを、
この
オオクス
から
かんじることができます
そして、
この樹のある場所が
歴史に大きくかかわりながらも
その真実の姿が表に現れることのなかった(とされる)方たちに
ゆかりあることが
非常に
興味深く思えるのでした
*
【補 記】
吉本隆明さんの『最後の親鸞』の文庫版の解説として書かれた
中沢新一さんの文章を読んで
興味を覚えた
親鸞
エリート僧が集う「お山」を降りて
大衆の中に入っていった
彼は、
九歳のときに
この場所で
得度したそうです
親鸞のなかでは、
自分は煩悩のつくる世界を否定しているということを
外に向かって表示する、
いっさいの「僧」のしるしなど
なんの意味ももたないものになっていったし、
念仏を選ぶかそれとも捨ててしまうかの決断さえ、
「面々の御計」として、
各人の自由にまかされてしまっている。
こうして、
親鸞の思想のなかでは、
「信心」でさえ、
もはや「理念」や「宗教」への信仰などから、
自由になってしまった。
(略)
吉本隆明は
親鸞が切り出してみせた「造悪論」のなかに、
未知の倫理の発生すら予感しているのだ。
(中沢新一著『ミクロコスモス ー耳のための、小さな革命ー』P.118〜P.119)
鈴木大拙氏に言わせるなら、
日本人の精神が
大地に根ざしたのが
鎌倉時代
親鸞は
その
強力な媒介となったのでした
霊性は、大地を根として生きている。
萌え出る芽は天を指すが、
根は深く深く大地に食い込んでいる。
それゆえ平安文化には宗教がない。
平安人というは、
大地を踏んでいない貴族である。
我らは大地そのものである
ということに気付くと、
ここが直ちに畢竟 浄の世界である。
考えそのものが大地になるのである。
大地そのものが考えるのである。
そしてここに日本人の
宗教的信仰的自覚があるのである。
これを日本的霊性的自覚という。
(鈴木大拙著『日本的霊性』より)