おりおりに 出逢った      「すきなもの」を      縦横無尽に ご紹介
http://sukimono.edoblog.net/
1 2

線。次元の折りたたみ















見 方 に よ っ て


1 次 元


2 次 元


3 次 元





あ ら わ れ る






そ し て




直 線 は 次 元 を 超 え る






振動/胎動















































【振 動】


①揺れ動くこと。


②ある量が、一つの状態を中心に周期的に変動すること。


③数学で、無限に続く数列・関数列の極限が不定で、収束せず、

また極限値が無限大でもないこと。






【胎 動】


①母胎内で胎児が動くこと。


②新しい物事が、内部で動き始めること。また、内部の動きが表面化しはじめること。







気がつけば…














不 思 議 に


模 様 が



浮 か ん で い ま し た



















開かれた可能性













ふと目にとまった

「回」 



金文文字



書いてみました








<金文の「回」。ウィクショナリーより>







という文字は

『常用字解』によれば


【象形。淵などでぐるぐるまわる水の形。

それで「まわる、まわす、めぐる」の意味となり、

まわることから、

「かえる」の意味ともなる。

淵(えん、ふち)も水がぐるぐる回って流れる形を示す時である。】


とのこと




この絵を家人に見せたら

「Gってかいたの?」






確かに

GにもCにも見えます




『アルファベットの事典』によれば

Cの文字の起源は

原シナイ文字とフェニキア文字の第3番目の文字「ギメル(GHIMEL)」であり

そこからギリシア文字「ガンマ(GAMMA)」が生まれ

そしてローマ字に比較的遅く現れた

Gの文字は

そのギメルとガンマを間接の祖先とするのだそうです







【 C 】


ギメルの起源と変化については、長いこと次のような説が信じられてきた。

すなわち、ギメルは

ラクダを意味するヘブライ語「ガマル(ローマ字表記でgamal)」の最初の文字である。

初期の絵文字は、ラクダの瘤か首のような形(ך)だったが

やがて直立し

右に向きを変えて、ギリシア文字のガンマ(Γ)となった、と。

しかし今日ではこの説のかわりに、別の解釈が注目されている。

そのひとつによれば、

数字の7に似たギメルの形は

投げ棒ぁブーメランをあらわし、運動の概念を含んでいるという。

また、別の説によれば、

魚を捕るための銛のようなものをあらわしているという。


(略)


Cという字は円周の一部をなしている。

それは完全に閉じた円周ではなく、

右側に開口部があり、

来るべきものの方に開いているように見える。

この開口部は、

卵が割れて中から新しい生き物が世界の発見に乗りだすように、

囲いの外に出る可能性をあらわしている。

こうしてアレフ(ALEPH)に含まれていた精気と創造力は、

ベート(BETH)があらわす家にしばらく住んだあと、

束縛を断ち切って外界へ飛び出してゆく。





【 G 】


大文字Gのデザインのもとにある渦巻き形は、

昔から豊穣、生命、成長のシンボルだった。

その形は

運動、とくに回転運動を連想させる。

Gは gyrocompas、gyroscope(ジャイロコンパス、ジャイロスコープ)といった単語の

接頭辞gyroの頭文字でもあるのだ

(gyroの語源は回転運動、円周、輪を意味するguros)。


Gはまた

grain(種子)をはじめ、

germe(胚)、gamète(配偶子)、genèse(起源)の頭文字であることから

「生命」という要素をふくみ、

誕生のシンボルでもある。

さらに大地とも関係があることは、

géographie、géométrie(地理、幾何学)の接頭辞géoや、

地球を意味するGe、Gaiaなどの言葉をみればわかる。







その本に

Plenitudo

“余すところなき成長”意味すると記される

「ギメル」





「回」という文字も

閉じられた場の 水の回転、ではなく

余すところなく成長してゆく

運動や流れ



あわらしているように思えます




ヒトが形や型に託すものは

もちろん異なることもありますが

原初の単音の発声が多分そうであるように

根底では


通じているように感じれらるのです


申(シン)












<申>




象形

稲妻を象る

電(伸びる稲妻)の元字



そこから「伸」「神」の意が生じ

その神に願い事などをすることから「もうす」の意が生じた











<以上 ウィクショナリーより>




流れ そして飛翔







<オカバンゴ・デルタの航空写真
特集のテレビ番組の画像を撮影しました>





はな ひらく










その寺院を知ったのは

どういう経緯だったのか

今となっては思い出せないのですが、

気になっている土地の

最澄が開祖の場

ということで

私のアンテナにひっかかり、

昨日

ふと思い立って訪ねてきました




ある時期よく足が向いていた

水辺の場所には

かなりの確率で 十一面観音や不動明王があり

どういうわけか

天台宗との関わりを感じることが多かったので、

天台という宗派や最澄という人物が

なんとなく

気になり続けています





 
 
  





空海と縁の深い地に生まれ育ちながら

また

空海を信奉する人たちに出会ってきながら

空海には

それほどの興味をもつことなく

現在に至っている この私





かといって

「最澄が好き!」

というわけでもないのですが、

彼や天台というものが

果たしてきたであろう役割



関心があるようです




空海や真言が 歌舞く

その奥で

その背後で

最澄や天台が 行なってきたであろうことに…




















後一条天皇の勅願によって建てられたという

観音堂は

全国唯一の「四方懸造」で

国の重要文化財に指定されています




巨大な岩の上に

61本の束柱で支えられた

床高16メートルの建造物




御本尊は

十一面観音です



























この周辺は

古代より不伐の森として

守られてきたため、

境内にも

樹齢千年を越す大木が

いまも息づいていて…




最澄が寺を開くずっと前から

聖なる地として

大切にされてきたことが

うかがえます





















山林の宗教者である聖たちが、この列島上に出現するまでは、

自然の力は「見えないまま」に、

タブーの領域に封印されたままだったのである。

山のなかの湖や洞窟や磐岩などの近くには、

人々はめったなことでは近づこうとはしなかった。

そこは、聖なる場所とされ、

得体の知れない怪物や、手におえない霊力のうずまく、

恐ろしい場所として、

人々の意識の世界の外におかれ、

生贄[サクリファイス]をささげることで、

ようやくその得体の知れない力を、

なだめることができる、

と考えられていたのだ。












そこに十一面観音の像があらわれたのである。

自然の奥深い力(それはカミの力と呼ぶこともできる)に、

直接触れあって、

それをマジカルにコントロールしたいという欲望をいだいていた、

古代の宗教者たちは、

この仏像のなかに、

人々の精神に革命をもたらす、

起爆の鍵をみいだすことができたのだ。

はじめてこの仏像を目にした、古代の素朴な宗教者たちは、

十一面観音のポリモルフに、

異様な衝撃を受けたのではないか。

その仏像のなかには、

自分たちが感覚ではよく知り抜いてはいても、

それに明確な表現をあたえることができないまま、

タブーの領域のなかに閉じ込めてきた自然力の異様と、

どこか近親するもののあることを、

彼らは鋭く感じとった。

しかも、

その仏像は、

目に見えない、形にならないカオスの力に、

もののみごとな表現をあたえていたのだ。



それによって、

目に見えなかった力が、

見えるものとなった。

恐れをあたえる不定型のカオスは、

畏れの対象である美しいポリモルフへと、

変貌をとげた。

十一面観音の造形の力によって、

それまでタブーの領域に封印されてあった自然の宇宙力は、

人間にはまるでお手上げという状態を抜け出て、

ようやく、

寺院の薄暗がりのなかにたたずむ仏像の美のなかに、

昇華をとげることになった。


(略)


彼らはその冒険によって、

新石器時代以来、長い時間をかけてつくりあげられてきた、

「野生の思考」としての宗教と自然観に、

この列島上で、

決定的な飛躍を実現してみせたのだ。


(略)


ここでも重要なのは、

技術、業[メティス]なのだ。

仏教が日本人の精神にもたらした最大のものは、

無常観でも、論理学でも、戒律の思想でもなく、

人間と自然を媒介する、

新しい精神技術の導入にあった、

と私は思う。



それは形にならない、

したがって目に見ることもできない、

宇宙的な自然力を「造形」して、

それを目に見える形にまで、ひきだしてくるメティスをあたえ、

人間の心の内側に欲望としてうずまいている、

もうひとつの自然力をコントロールするための方法を、

開発してきた。

その技術をとおして、

日本人の自然観も宗教も、

かたちづくられてきた。

そして、

その変化の、

最初のきっかけをつくりだしたのが、

十一面観音像の出現だったのである。



<中沢新一・著『ミクロコスモス Ⅱ ー耳のための、小さな革命ー』P.200〜P.207>













いま、

既存の「精神技術」や「造形」に


自分の真実はない



強烈に直観している私たちは、

“感覚ではよく知り抜いてはいても

それに明確な表現をあたえることができないまま”でいるものを

あらわすための

冒険



決定的な飛躍




必要としているのでしょう











@旧暦1月23日

天平の地平










山口へ行く

飛行機のなかで

機内誌を ぱらぱら と めくっていたら

一枚の写真に

目が釘付けになりました




その航空会社の

来年のカレンダーの12月の写真




右下に小さく

金銅唐花文碗/東京国立博物館蔵



記されています




持ち帰り自由のその雑誌を

宿へ運び

写真のページだけを破って

ファイルに収め

自宅まで




調べてみると

国宝



8世紀のもの

であることが

わかりました




8世紀といえば奈良時代

天平文化が栄えた頃です




私の

ごく限られた経験に基づいて言うなら、

天平時代のものは

初々しくて

伸びやかで

創作のよろこびや

いのちの勢い

ようなものが

感じられ

見ているだけで

楽しく 清々しい 気持ちになります





飛鳥時代の

大陸や半島の匂いが薄れ

この国の風土と溶け合った

あたらしい かたち



うまれている最中の

雰囲気が

そのまま

写し取られたかのようです




この碗が

どこで作られたのかはわかりませんが

(上記の理由から 日本国内だと推察するのですが…)

それが

日本であれ

唐であれ

違う文化が混じり合う

いぶきのような

自由な空気が

伝わってきます




異なるものが

出逢い

触発しあい

あらたなものをうみだす

天平の地平の精神を

受け継いでいけたら



思うのです



















佇まい







暑さが本格的になってくる

という

小暑





うつくしい佇まいの器



出逢いました




おおらかな女性らしいフォルムに

きりりと

ひとすじ引かれたラインが

全体を引き締めていて


しなやかな

強さ



かんじます




ふと

数日前に目にした

あるワインについてのコメントの中の

「鋼鉄でできた絹を連想させるような

繊細でしなやかながら、力強さを感じさせ、

偉大な生命力を感じさせる」

という

文章を思い出しました




なにか懐かしさを感じるこの器



観ていると


中東や中央ユーラシア

そして

旅する民



香りが

漂ってきます











うつくしい佇まい



側にいるものの

居ずまい



自然に

ととのえてくれるのだなぁ



改めて

モノ/存在 の ちから

モノ/存在 の はたらき



感じ入った

今年の七夕でもありました